1.20.2016

精神の因果律

フロイトに強く影響を受けた人物の著書を読んでみると、どうやら人の現在の成り立ちには、幼少期の体験が強く影響しているということである。

なるほどこれは当然で、例えば我々はもう、現実に対してある程度の準備が完成しているけども、我々が無垢の赤子だったときには、世界はまったく得体の知れない怪物として我々を驚かせていたことは想像に難くないからである。

我々が赤子のときに、正しい段階を踏まずに世界に対する了解を得てしまったとすると、
それがあとあと、神経症のような倒錯的な精神病に導かれると考えることは自然である。

父親があって、母親があって、我々はある。これは事実である。遺伝の要素もあるし、我々が生まれたとき、またその世界として直面する畏怖の対象は、まずもって父母である。我々の直面する世界とは、まず父母なのである。



ただ世間のひとびとが考えるほど、私は父母の影響はないと思っている。また、過去から現在が成り立っているという一般的な因果律も、そもそも私にはあまり重要でないと考える。これについては長くなるから、今回は触れない。

我々が赤ん坊であるときにも、我々はまっさらな白紙であるということはない。遺伝的にある程度素因が決定されている。私はまずもって男であって女ではないし、私は白人でも黒人でもない。
私が両親のせいで白人になるということはなく、女になるということもない。そうであるなら、どうして精神だけが自由になると言えるのだろう?

よく未熟な精神の持ち主が、自分の生活の不満や、性格上の難点を、何十年も前の両親の子育てに求めようとすることがある。私はそこまでの責任を肉親に求めるのは、酷だと思うし、単純にわかりやすい便利な誤謬に固執しているだけのように思える。こういう人間は、たいてい自分を憎んでいるだけであり、自分への憎しみを対象化するために両親にぶつけているだけだろう。

私の考えはといえば、私の顔が指紋がこうであり、顔がこうであり、肌の色や、内臓の具合がこうであるように、精神の具合というのもこういうものであり、それはある程度素因によって決定づけられていた、とする極めて単純なものである。

たとえば「私は両親に支配的に束縛されていた、それで神経症を発症した」と先のフロイト派の先生は言うけども、そもそも神経症的な素因があり、それに両親が影響されたとはなぜ考えないのだろうか?

人と人との関係は、互いにバランスを取り合って成り立つ――と彼はいう。そうであるなら、赤子と親の関係は、親の一方的な関係であると必ずしも考える必要はないだろう。初めから支配的な母親があったわけではない。赤子は、支配に適した性格だった。それで、母親が支配欲にかられた。そう考えることもできる。

私の考えでは、こういう人物は、もしも違う親に育てられていたとしても、神経症を発症していたはずだ。私も神経症ではあるが、もし違う家庭に育ったとしても、さまざまな事柄に我慢のできない、
あるいは平常の感覚から逸脱しているような人格になることは、運命づけられていると思う。

精神がなぜ初めに白紙である必要があるのか。

我々は、何か過去の体験が自分を形づくるとなんとなく思っている。それは他者を観察するがごとくである。彼は○○部署だからああなのだ、彼は統合失調症だからああなのだ、彼の親は、彼の出身は、彼の学部は、彼の宗教は、云々。それはある程度蓋然性はあるのだろうが、こと自己を観察するに至っては、こうした因果律は迷妄であることの方が多い。我々を突き動かす欲動は、明白な因果律よりもはるかに無意識的、カオス、非言語的領域であると私は思う。

例えば私の目が黒色であることは、私の意志ではない。また、それを意識的に変えることはできない。同じように、精神もこういったものだったのだ。そう考えることで、私の神経症は結局治っていないけども、人生に対する了解を得たことになる。私にとっては、父母よりも、「因果律」の呪縛の方が厄介だったようである。

我々が苦しむとき、因果の誘惑が訪れる。我々はかりそめの因果を見つけてほっとする。私の親が悪かったのだ。子どもの頃の、あの事件が悪かったのだ。私にはそういう解決方法は、どうもこじつけにしか見えない。なんだかしょうもない帰結だが、人間は記述したがる本能があるということだろう。その衝動は、神経症の私がいうのも何だが、強迫的でさえあると思う。

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