1.24.2016

ポス・サイ

今日の晩御飯はキャベツとソーセージを炒めたものにする予定である。これを、炊き立てのご飯に乗せて食べる。ストーブを買ったので、その上で焼き芋を作ることもする。

生活はうまく行っているが、不安を覚える。私は確かに幸福だし、まあまあ良い生活をしていると言えるだろう。しかし、生活が良くなっていくにつれ、私の知性も曇っていくように感じる。

もともと知性とは何か、と考えてみると、私はもう何度指摘したかわからないが、それは苦痛により生じたものである。我々がもしも厳しい環境にさらされなければ、知性は発達しないはずだ。

知とは、必要のために生まれる。何かが欲しい。何かを解決したい。そのための道具が、知性である。だから、我々がもはや苦痛から解放され、何も望む必要もなくなれば、知性は用済みとなる。

岸田というフロイト好きのどこかの大学のセンセーは、「白人は迫害されていた」という説を立てていた。これによると、白人はもともと黒人から生まれたアルビノであるという。

現代では白人が黒人を奴隷化した歴史が教えられているけども、実は古代には黒人が白人を迫害していた歴史があったのであり、白人にはその時代から怨恨がDNAに刻み込まれ、立場が逆転した近代において、黒人に復讐を果たしたのである。白人が他民族を支配したがるのは、かつて支配されていたからだ。作用、反作用――というような。

なんとなく、理解できる話ではある。白人の宗教であるキリスト教は、「愛」を説いたが、その「愛」が極めて重要な役割を持った理由は、彼らがあまりに「憎しみ」に満ちていたからだ。

愛のあるところで愛を説いてもしょうがないし、憎しみのないところでも然りである。

日本の中世において、来日した宣教師が愛を説いたところ、「それは性交のことか」と笑われたという。このあたりは単純に宗教観というよりも、白人とアジア人の違いと言えるだろう。

白人は迫害の歴史のなかで、知性を肥大化させた。それは生き抜くための術であった。対して、豊かな自然環境でぬくぬくと育ってきた日本人は、某氏の言葉を借りれば反知性主義であると言えるだろう。経営者に搾取されようと、文句ひとつ言わず、他民族の攻撃に対して、笑顔を浮かべる。

次世代のパラダイムシフトとは、ポスト・サイエンスである。科学の終焉である。それは、不必要になった道具を捨て去ることである。ヒッピーのように反作用的にテクノロジーを否定するのではない。論理思考、矛盾律を廃する。

思考様式とは、時代によって著しく変わっているものだと思う。かつての常識は未来の非常識になる。そのような時代が、いつくるかはわからないが、アリストテレスやプラトンの思考様式から、そろそろ解放されてもいいと思うし、そのときに科学は終わるのだと思う。

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