1.26.2016

契約と血縁

私の精神は、長く「中二病」的だったけども、今度は「社二病」と言えるかもしれない。つまり、社会人二年目にありがちな精神的偏向。

日本企業に入れば、否応なく日本文化に従属することを強いられる。この点は、外資系では違うのかもしれないが、例えば日々の勤労において「奉仕の精神」だったり、「年功序列」システム、難解な「礼儀作法」のような、日本ビジネスに深く根付いた日本文化に囲まれるうち、徐々に根本的な思想にまで日本の文化が入ってくる。

というのも、我々は学生時代のように、授業から抜け出すということはできない。なぜというに、我々の生活は経営者が握っているからである。

この互酬の関係が、日本的である。経営者は我々に食べさせてもらっているし、我々は経営者に生活を握られている。この点が、血縁的なのが日本企業の特徴である。同期は「同じ釜の飯を食う仲間」、すなわち家族である。

これが西洋ではどうかというと、これは「契約」関係となる。ここでは契約の条文が重要になる。だから、「8時間働きます」と念書を書いて、実際には12時間働かされた、給料は8時間分しか出ない、というようなことは西洋ではよほどのことがない限り起こらない。

日本では契約ではなく、血縁的な「情」が重要になるから、「この不景気のなか働かせてもらっているだけでもありがたいのだぞ」と言われれば、そういうものかと思ってしまう。

日本に西洋的なイデオロギーがもしも浸透していれば、ブラック企業は簡単に撲滅されるだろう。ししかし、それは契約の文化であり、血縁の文化とは違う。イスラム教やキリスト教のような「砂漠の文化」であり、このような文化を国内に取りこむことは、イデオロギー的にはグローバリズムに飲みこまれることを意味する。

以前香港で、民主主義を勝ち取ろうという民衆の運動があった。そのなかの若者が、こう言っていた。「日本人は、民主主義だから投票の権利が与えられている。そのことを当たり前のことだと思わないでください」。それで、バカな日本人は、「感動した。ちゃんと選挙に行こうと思った」などと言っていた。

民主主義という概念も、根底には契約の概念がある(社会契約説)。が、血縁的関係には契約など必要ない。契約とは、もともと切り離された個人同士で交わされるものであるが、血縁で濃密な関係が築かれている日本ではこの必要はない。たとえば、日本人は何も言われなくとも「整列したがる」が、これは別に法律に規制されてのことではない。法的な権利意識というよりも、「恥」の意識と言うべきか。

日本では、法律や契約を破ることをなんとも思っていない。それよりも、「血縁」や「恥」の方が重要である。「私は無罪だが、世間をお騒がせして申し訳ない」、「彼の方が優秀なのはわかっているが、この職には私の愛弟子を」。法・契約のようなものを軽視する習性は、支配階級でも末端の庶民でも同じである。

この国家は、イリーガルなマフィア集団と説明してみるのもおもしろい。外国人にとって、日本の習性はほとんど理解不能といったところだろうが、マフィアのようなものだと言えば、わかりやすいだろうと思う。国家マフィア、警察マフィア、会社マフィア。法令違反も上等だ。談合、賄賂、何でもござれ。公共の精神などは存在しない。

日本の国家構造は理念上、厳密な上下関係において築き上げられる三角形構造である。集団の中での自己の役割が重要になる。西洋では、これは解体され、個人が地平に点々と存在する平面構造になる。個人が主体となる。

単純に「個人主義」「集団主義」と分けてみたところで、国家構造を理解していないと概念として理解しづらいだろう。我々の思想とは、あんがい国家の統治(権力による支配)によって形成されているものである。フーコーの構造主義はこの点を指摘している。

まあ、西洋イデオロギーと日本のイデオロギーのどちらが良いかはわからない。別に上で語ったようなマフィア制度は、日本だけのものではない。中国や韓国でも同様だろう(あるいは他のアジア、ロシアのような国)。だから日中韓のような東アジアが協力しあえば、西洋イデオロギーに対抗できるだけの勢力を生み出すことができるかもしれない。

アメリカのような西洋国が恐れているのはこの潜勢力であることは、なんとなくわかることである。日本では反中、反韓のような稚拙な思想がブームとなっているけど、その根底にはアメリカの謀略があると私は考える。人間の思想とは、容易に権力によってすげ替えられてしまうものであり、その意味ではまったく不自由なものだと言えるだろう。

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