1.27.2016

小説家を考える

芸術だの科学だのそういうものに心酔していたときはいつかは自分は芸術家だの思想家になるだろうことを夢に描いていた。しかし昨日の冴えない日記を読み返してみるにそのような可能性はないだろうことに確信を得た(最近はひどい散文しか書けていない)。

私は一個の凡庸な人間に終わるだろうと思う。それはまあまあ幸福な道に違いない。私は長く不幸に生きていたから芸術のような救済の道が必要だった。私の不幸を何かに転化しなければなかった。しかし私はある程度の幸福を得た。私は自分がいまさら何か小説家になれるとか思っていない。何だか小説というものに、可能性を感じない。また、書物全般に、あまり良いイメージを持たなくなった。

かつてはそこにすべてがあると思った。世界中の人々を熱中させる、天才の沸騰した頭脳で記述された書物。なにか真実があると思った。しかしそこには何ら確定的な事物はなく、世界を単純化して見せるだけのものだった。

考えてみれば、言語、ロゴス、それ自体が世界を単純化するためのものである。非言語的領界はふつう隠されている。我々はそうしなければこの世界で生き残れないだろう。リンゴをリンゴと認識できなければそれを口に運ぶこともできない。

そういうわけで私が読書体験によって得たのは、ロゴスによって描かれた、「ロゴスの性質」でしかなかった。それは味気ない道具であった。我々は道具をひたすら凝視し、分析することに夢中になった。そしてその道具の目的からはどんどんと離れて行ってしまったというわけだ。

非言語的領界を記述しようという試みはある。それが思想にまで高まることがある。それが、実存主義である。けれども、言語的に描かれたそういった試みは、非言語的領域への橋渡しにはなるけども、それ自体は本質的な営みではないように思える。

そういうわけで、言語というものにあまり関心がなくなってきた。それでもこうして、何かを書くことが好きなのは不思議である。

これまで、小説あるいは小説家というものに、なぜか関心が持てなかった。筒井康隆は好きだったけど、古典的な小説や、文学的な作品は、あまりピンとこなかった。文筆家になろうと思うなら、ふつうの人間であれば小説家になろうとする。しかし、なぜ小説なのだろうか。

小説を書くモチベーションは、孤独であり、不幸である。幸福な人間は、何も訴えるべき悲惨がない。ゆえに、なにかを記述しようとは思わないはずだ。だから、幸福な小説家などはふつう存在しない。

それでは、ひとはなぜ孤独になるのだろうか。元来、我々は孤独ではありえなかった。人類はもともと集団主義的であった。未開の民族などには、「個人」は存在しない。戦前の日本でもそうだっただろうし、阿部謹也が言っていたと思うが、ヨーロッパでも庶民は近代まではそうだった。

やはり小説というのは、西洋イデオロギーの産物であるという気がする。これは芥川だの、漱石だの、そういう大作家についても同様である。

それでは西洋のイデオロギーはいつ成立したのだろうか?ふつうは、プラトンやソクラテスに遡るだろう。キリスト教の源流はプラトニズムである。

それで、私が以前適当に予測したのだけど、プラトンはピュタゴラスの系譜であり、ピュタゴラスはゾロアスターの……という風に、さかのぼるとゾロアスターに行き着く。拝火教の教祖である。この辺はとても興味深いのだけど、掘り下げてもしかたないという気がする。

ここで言いたいことは、小説家というのはたいていプラトニズムの病に侵されているのであり、その点が私にはすこし気に入らないということである。近代の小説家たちは、プラトニズムの布教者であるとさえいえる。

そういうわけで非言語的領界をすこし探求してみたく思っている。

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