1.11.2016

循環機械

昨日はバイクで走り回っていた。今日はバイクのメンテナンスをした。

私はバイクのメンテナンスは初心者だけど、なんとか技術を身につけるよう努力している。その方が、不測の事態に対処しやすいからだし、バイクに愛着が沸くからだし、なにより工賃が浮く。

海外旅行では大部分の行程をバイクで移動する予定なので、そういった知識を身につけなければならない。

今日はキャブレーターという精密部品のオーバーホールをした。キャブレーターとは、いまでは電子制御にとって代わられてあまり使われないけど、ようはガソリンタンクとエア・インテークから、燃料と空気を適切な量で混合し、エンジンへ送り込むような装置だ。

アクセルを捻れば自然とガソリンと大気が適切な分配でエンジンへ送られる。このおかげで、エンジンは適切な回転を保つことができる。もしガソリンが多くなれば(濃くなれば)プラグが被って点火しなくなるし、逆に燃料が薄くなればガソリンによる気化熱でエンジン内部が冷やされず、オーバーヒート(デトネーション)によってエンジンが焼き付いてしまう。

いずれにせよ、キャブレーターが不調だと走行不能に陥ることがある。そこまでいかなくても、キャブが不調だと、何でもないところでエンストを繰り返したり、思うようにバイクが進まないということがある(私の買ったバイクはそういう状態だった)。だから、まあ大抵の基幹部品ではそうだが、欠くことのできないたいへん重要な部品である。

キャブレーターは精密部品だが、外部から燃料と空気を取り込む以上、メンテナンスは必要だ。そういうわけで、作業の詳細は省くが、一日メンテをしたというわけだ。

バイクのメンテナンスに私が不慣れだというのは、それは知識の話ではない。もっと精神的なレベルである。とは言っても、これでもずいぶん進歩した方だ。私はバイクのメンテは、バイク屋に任せるものだと思っていたから。

それというのも、私はバイクをなにかブラックボックスのように考えていたからだ。しかし、バイクとはきわめて合理的な構造物である。そして、そこまで複雑ではない。つまりほとんどの事柄が自明であるし、わからなくても少し考えればわかる、ということだ。

ナットやネジを見て、「これではお手上げだ」なんて思う人はいないだろう。ナットはレンチで外せるし、ネジはドライバーだ。ほとんどのメンテナンスは、この繰り返しでなんとかなる。

そういうことを知ったのは、必要から自分でメンテナンスをしてからだった。初めは恐怖心でいっぱいだった。それは弄り壊してしまうのではないかという不安だった。悪いところを直すつもりが、余計に悪くしてしまうのではないか。しかし、杞憂だった。私はきわめて拙いメンテナンスをしたが、それでも悪い部分は直った。バイクは問題なく動いた。私は、バイクは簡単にメンテナンスできるように作られていることを知った。

それはメーカーの善意というか、企業努力というべきかもしれない。バイクは基本的に、メンテをされるべく作られている。つまり、上のキャブレーターもそうだし、たいてい消耗品があるところや調整が必要なところは、ユーザーフレンドリーに設計されている。ユーザーというか、一般的にはバイク屋の親父にフレンドリーと言うべきかもしれない。いずれにせよ、「整備性の良さ」という要素はあんがい重要である。自分でメンテをするライダーは同じメーカーのバイクを買うだろうし、親父は整備性のいいバイクを売りたいと思うだろう。だからメーカーは、あまり目立たないところだが、整備のしやすさはきちんと確保している。

このあたりのニュアンスは、バイクを実際に持っているひとでないとわからないと思う。自分ではオイル交換すらしない人がいる。工具を一切持つことなくバイクを維持する人がいる。そのようなことは専門家――バイク屋に任せればよいと思っている。バイクではまだよいが、自動車ではこのようなユーザーがほとんどだ。

しかし、いったん自分でメンテナンスをするようになった人間は、可能な限りは自分で対処したいと思うだろう。なにしろ、バイクはユーザーにも簡単に整備できるよう作られている――ということを、彼は知っているからである。そうして、完全にお手上げ状態になったときに初めて「専門家」を頼るだろう(そのようなことは、あまりないだろうが)。

話が長くなった。ようは私は、バイク屋任せのライダーから、自分で整備するようになっているというだけの話である。

私がこのようにバイクのメンテナンスに拘るのは、今読んでいるパーシグの本「禅とオートバイ修理技術」の影響が大きい。このなかの、「テクノロジーに宿る仏性」という言葉が妙に気にかかっている。バイクはしょせん工業製品である。だけれども、工業製品に仏性は宿らないのか?仏性とはその程度のものなのか。

バイクのメンテをしながら、いろいろなことを考えた。けれども、その半分はイライラしていた。なにせ、手は傷だらけ、化学薬品とオイルまみれで、ささいなことで何度も頓挫するといった具合だったからである。この感覚は、私が入門者であるからだと思う。だから経験と共に落ち着いてくるだろう。

これは楽器と同じだ。いずれ何も考えずに手指が動くようになる。インプロヴィゼーションと同じように、行為のなかに沈潜するようになる。趣味とは、このようなものであり、このような状態こそ、われわれが目指すべきものであると思う。

どうでもいいことを、長々と書いた。明日はまた仕事だ。

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