1.30.2016

静かな生活

日常のささいなことが喜びとなり循環する日々に幸福を見出すようになっている。

明日は今日の繰り返しである、毎日似たような業務をこなし、取り立てて何か障害があるわけでもない。重圧から解放された。すると、つぎには心身が蒸散してしまうような心もとなさを覚えた。

人間が次から次へ自分にタスクを課すのは自己というものを確立したいからだろう。同僚を蹴落とし勝ち上がっていく人生、相手を憎み憎まれる人生というのも、それは退屈ではない点で有益と思える。

適度に飼いならされて、日常の小さな喜びと小さな苦痛から最大限の刺激を搾り取ろうとするのが田舎の生活である。たとえば私は今ストーブでジャガイモに火を入れているが、そういうことがたまらなく好ましく思える。

田舎に住んでいればついには駄目になってしまうだろう、という人がいる。かといって、いまさら都会に戻る気もおきない。都会、というか東京にメリットがあるとすれば、学生時代の友人たちと気軽に酒が飲めることだろう。もう、彼らとはほとんど交流がない。また、さまざまな新しいこと、革新的なことを試みている若者がいることだろう。田舎にはそういう種類の人間は皆無である。

学生時代の思い出は、何もなく、私の脳のなかにしかないから、すべてが幻想のようにも思える。人と人との繋がりが人生に意味を与える、と人が言う。私がよくかかわったのは、書物の人物とだが、最近はその繋がりも不信の目で見るようになった。

自然と社会という対立がある。田舎の人々は地母神を信仰し、社会の人々は父なる男神を信仰すると。田舎のひとびとは母親を信仰し、会社人間は上司や社長を信仰する。まあどうでもいい考察だ。

田舎で生活しようと思えば、いくらでも生活できるという気がする。私はいつか死ぬが、田舎の生活は、死を受容させるような何かがある。田舎は、死と生のサイクルがある。田畑、山々の木々、河の流れ、すべて途絶えることなく循環している。田舎で死ぬことは、それは同時に生きることを意味する。

では都会といえば、死ねばそこまでである。だから、都会人は死を恐れる。死を恐れるエネルギーが、知性と情熱を産む。キリスト教も、輪廻転生を説かない。歴史のあるスパンのなかを生存した、というのみである。この直線的な歴史感覚が、都会=男神系の根底思想である。

だからハイデガー流の実存主義は、田舎のひとびとにはピンと来ないだろうと思う。

西洋思想の潮流は、いずれ相対化されるだろうと思う。いままでの西洋思想の悪癖が、客観視される時代がくるのではないかな。

ともあれ、私の生活は、刺激のない、退屈なものになっている。私はこの退屈な生活も、ひとつの生として楽しむことにした。何にも影響を与えず、何者でもないような日々だが、自己を薄めて、世界に蒸散させるような感覚は、これはこれで心地よい。

今日は雨がやんだら、バイクを走らせようと思う。

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