1.05.2016

旅の計画

世界から再び阻害された感じ。かといって、不幸ではない。微妙だ。

私は田舎の片隅で生きている。私は海外に出ようと思っているが、それは地を這うに等しい行為だ。私は別に、高みに昇るわけではない。海外での経験が、私をなにか満たすとか、私に能力を付与するとか、それが「よい思い出になる」とかいう風には思えない。

おそらく、どうしようもないくだらない人間と、出来事に、うんざりさせられることだろうと思う。

想像すれば、私には見える。わざわざ旅などして、それ以上なにをするというのか。感じるために移動しなければならないのは、想像力が極度に脆弱な人間だけだろう。(不穏の書、断章 / フェルナンド・ペソア)

私の親戚は、一流大を出て、官僚になり、財閥系企業に引っ張られた人間で、いまは海外支社で勤務している。このような「高みにある」人間と、私とは接点がない。

私は、地を這うようにできている。私が乗るのは、7万円のバイクと、9万円のバイクと、30万円の軽自動車。私はいまだに高速道路も乗れない。私は下流である。

下流には、下流の旅があるし、下流の目線がある。世界は断絶されている。下流の知る世界は、下流でしかない。それは、わかっている。

世界がもしも円錐状だとしたら、私は底辺(円周)にある。私は中心の高みに昇れないだろう。それにあまり昇る気にもならない。

私が旅に出るということは、この外円をくるくる回ることに過ぎない。このことは冷たい目でもって認識している。

最近は、この円錐状の世界が、あまりにも巨大で、複合的であると感じる。響きのいい言葉でいえばコングロマリット的な様相を示してる、ように思えた。それは、巨大な「理性の城」である。

われわれは、理性を手に入れたと同時に、理性の奴隷になったのだろう。たしかに、われわれは飢餓を克服した。病気を克服した。しかし、失った代償は大きい。

よく、ヒッピーかぶれはこういうことを言う。「科学によって核兵器ができた。より多くの人間が戦争で死ぬようになった。だから科学は悪だ」。私が言っているのは、こういう幼稚な話ではなく、もっと深い精神のレベルのことだ。

科学の成長は無限大だろうか。いつか終わることもある。科学は役目を終えるかもしれない。われわれが理性への妄信を捨て去り、その毒素に気づいたとき、ポストサイエンスの時代がくるのかもしれない?「ポストサイエンス」とは、いま思いついたのだが、良い言葉だと思う。やはりヒッピー臭いけど。

ともかく、理性は相対化されるべきだ。何事も絶対化すべきではない。これは当然のこと。

私の旅は、理性の外側をめぐることになると思う。

旅の計画を立てていると、気分が高揚してくる。出発はだいぶ先になるだろうが。これまでも海外旅行をしたことはあるけど、極限まで金を遣わない貧乏旅だった。今回の旅は、もう少し、余裕ができるだろう。また、そのときはひどく対人恐怖気味だったから、ひととの関わりもほとんどなく、あっても歪な形でしかなかった。そういった点もましになるだろう。

だれにも口にしなかった(ここ以外)旅の計画だけど、最近、母親に、旅の計画を伝えた。その上流階級な親戚にも連絡をとって、海外の情報を得ることにした。計画が、少しずつ進展していく。

特段意識をすることなく、事態が進展していく様は、おもしろいものがある。私は、そういう人間だったということだろう。ひとりが好きだし、旅が好きだから、一人旅をするのである。自然なことだ。

運命の流れに手放しに、といったところ。

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