1.17.2016

デジェネレ

観察のもっとも瞠目すべきものは、文士自身によってなされている。文士たちは自分の細々とした感覚までも書き込む。自分の病的性質を大事にする。それを自らの栄光とし、私たちに示す。自分の思考と感覚の表現という観点からすれば極めて才能に恵まれた彼らはその思考に相応しいやり方で自我を表明する。精神科医はそこから取り出せばいい……。それは解剖された神経症である。Voivenel

とくに思い煩うことのない日曜日である。

私は今週起こった一連の出来事を反省、吟味して、なんとなく結論のようなものを得た。

それは、私が集団・社会・世間に対するところの個人・私人であるということだ。

個人として生きる以上、世間との摩擦は避けられない。

もちろん、どんな国でも同様の事件を起こせば、同じように警察の捜査がされるだろうと思う。

問題はそういった法的な手続きではない。私の行動やふるまいが、集団・社会にどう捉えられるか、という点を考えてみると、私の行為は、世間における倫理からかなり逸脱したもののように思われる。

合理的体系としての倫理の観点からは、私の行動は特段非難に値するものではないと、私は依然として思っている。しかし、この国の倫理といえば、「警察の厄介になる」時点で私は断罪されるだろう。私は危険人物のレッテルを貼られると思う。

それは阿部謹也が繰り返し主張するように、「世間を騒がせた」罪である。この類の罪は、日本だけしか見られない。いや、中国やインドネシアでも「世間」はあるというから、少なくとも、西洋国では存在しない。

西洋:「私は無罪なので、みんなが私を信じてくれるまで戦います。」
日本:「私は無罪だが、世間をお騒がせしたことをお詫びします。」

私はマスコミにバッシングを受けたというわけでも、ネットで炎上したということもないから、大したことはないのだが、それでも警察の捜査や尋問を受け、また被害者との示談もあったから、「事を起こした」ことは事実だと思う。

私は自分のしたことは正しいと思っている。法的にも、法治国家で私刑を行った罪くらいしかないと考える。ただ世間的観点からは、私の行為ははっきりと断罪されることだろう。それは、あいまいな、空気による断罪といったところだ。だから、私の一連のブログ記事が輩の目にとまり、炎上したとしても(それこそ私刑なのだが)、それはしょうがないことだろうと考える。


考えてみると、私はこれまで、頑なに個人主義的であったと思う。そのことでずいぶん損をした。私はこの見た目だけ近代化の行われた国で、個人であろうとした。

私はかつてなんども年長者や目上の立場の人間を激怒させ、叱責されたが、それは根本的には
、私が彼らと対等の一個人であろうとしたからだと思う。そのたびに、私を知る人間は、私を奇異の目でみた。「なぜお前はうまく世渡りができないんだ」「周りと同じようにやればよいだけだ」と。

それはたしかにそうなのだけど、私は世間の空気に馴染むことができなかった。私には彼らこそ奇異だった。個人であるために、私の人生は不幸続きだった。日本において個人であることはそういうことだ。

だからまあ、やっぱり、脱日本を検討してみるのも良いかもしれないと思った。西洋のなかには、私と似た考えを持つものもあるかもしれない。そういった人びとや文化背景や思想に触れるためにも、海外旅行は必要だと再認識する。書を捨て、旅に出よ。

もちろん、私のルーツはあくまで日本だから、西洋と日本、どちらに落ち着くとしても引き裂かれるような部分があることは確実だ。それくらいのことは私は理解している。

それにしても、私がこのように日本において異端であることは、不思議なことだと思う。私はなぜこの国にあって個人なのか。これは、たぶん、生まれついてのものだと思っている。生物には一定数、奇形が生まれる。私は精神の奇形といったところだろう。


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