1.06.2016

変わっていく

なんとなく、小説を書こうと思った。さまにならない日々を送っていると、こういう気持ちになる。希薄化した日常のなかで、足がかりとなるような凝固点が欲しくなる。そうでなければ、われわれは空に投げ出されたような気持になってしまう。明日と今日との違いが欲しい。ひとつの進展、打ち込むべき仕事があるべきだ、と。

日常に矛盾なく染み込んでいくような自己と、それから逃れようとする自己がある。

というか、最近はこういう抽象的なことばかり書いているな。書くネタがあまりないということもある。

前までは、本を読めば、なんらかの記述したいという要求が生まれた。今も、読書はするけれど、たいした分量ではない。もっとたくさん読んでみたいと思うけど、本を読んで得られるものも、あまりなくなってきた。

この感覚は少し前からあった。新しい知見を得られるというよりは、すでに知っていた事実の再確認になってしまうのである。昔は、名著を10ページも読めば、そこから得られる教訓は何十個もあった。いまは、同じ分量を読んでも、たったそれだけのことを表現するためになぜ引き延ばす必要があるのか?と考えてしまう。

知識は、細かな要素の集合ではない。記憶それ自体は知識ではない。それらを統括するはたらきが、「知」ということが言えるだろう。だから、知が発達し、洗練されていけば、最終的にはすべてが統括されるだろうと思う。

われわれの青春時代を考えてみると、あらゆる事象が、色彩を持っていた。新鮮な感覚とはっきりとした輪郭があった。青春を終えると、われわれを待っているのは、微妙な色彩である。この意味で、われわれは年をとることを肯定的に捉えることができるだろう。ただ漫然に生きているとしても、やはり何らかの学習をしている。

智慧を持つ人は、唐突に刃物を持った強盗が押し寄せても、驚くことはないだろう。本来、智慧とはそういう性格のものだと思う。なにも計算能力とか、論理能力のことを指す必要はない。

まあそんなことを考えていた。私はいよいよ、ダメになってしまったかもしれないと思う。知を愛することができていたときが懐かしい。あのような熱情がなくなった。評判のいい小説も、子どもじみた著者が書いた暇人向けの駄文に見える。これが、よいのか、悪いのか。

私は生活のなかに沈む。神経症も直っていっている。これがよいのか、悪いのか。

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