1.20.2016

自殺の公理

生きていくことが我慢ならなくなれば、その命を絶てばよい。

が、私は何ら躊躇なく、生きることを選択する。

選択する?結局、私は生きる以外の道がないのだ。それなのに、いつ私に選択する権利が与えられただろう。

現状、私はそこそこ幸福だ。死ぬ理由もない。幸福でなかった時代でも、死のうという気はなかった。「適切な時期に死ぬ権利」も、万人に与えられたものではない。

考えてみると、私は幸福になる現在を見越して、不幸に耐え忍んでいたということができるかもしれない。それだけ、ぬるま湯につかったような現在だ。

知性が限界まで発達したひとは、たいていこう言うものだ。「人生は苦悩と不幸に満ちている」。だが、こうも言えるのではないか。「苦悩と不幸を生きた人は、知に生きるしかないのだ」と。

生まれつきsensitiveな人間は、傷つきよろめきながら生きることが宿命づけられる。しかし彼には光もある。凡人の見過ごしてしまう些細なことに興奮し、そこに一切の幸福を見つける。それは昆虫採集だったり、石ころであったり、ビロードの布であったりする。それがたまたま古典哲学だったところで、変わらないことだ。

知性は、なにか迷宮のようなものを求める。できるだけ緻密で、雑多な情報で溢れている方がいい。それがなければ、生はあまりに空漠で、その隙間に、落ちて消えていってしまうような恐怖に囚われるからだ。

幸福な人間には、信頼できる友人と美しい愛妻が用意されている。私には、グロテスクな現実と、哲学とが用意されている。だが、どちらも光に満ちているということだろう。

平等の概念。私はこれを懐疑の目で見るが、一面では真理を示している。それは、だれにでも幸福は用意されているということだ。

今日はもう寝よう。

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