1.07.2016

Church of Reason

「理性」と「理性の外側」との葛藤に、悩んでいるわけだけども、私より聡明な人間はいくらでもいるはずなのに、そういうひとびとがこうした分裂的な危機に陥ることがないのは、不思議なことである。

大学のような教育機関のことを「理性の教会」と、アメリカの記憶喪失の元大学教授は言っていた。教会では、神を信じないものはいない。また、教会ではひとびとは神について語り、神の前にひざまずく。大学という場では、教会にとっての神が理性に置き換わったことになる。

われわれが理性を信じたいと思うことと、神の存在を認めたいことと、いったい何が違うのだろうか。

Lyonel Feininger

こういう相対主義的な思考にいったんひとが陥ると、プラグマティズムに行き着くようだ。われわれは神/理性を信じる。その方が有益だからである。ひとは、有益だから信じる、という味気ない結論に至る。

神を信じずに、理性を信じることは簡単である。「この世のすべては理性で説明できる。幽霊や神や呪術は、迷信である。」このような考え方は多い。外国でも増えているだろうし、宗教的なこだわりの少ない日本ではとくにそうだろう。

では、神も信じず、理性も信じないとなると、ひとはこのような境遇に耐えられるものだろうか。

「耐えられるものだろうか」と問うても、私は別段苦しんでいない。酒が回ってきたのである。結局、私はデュオニソスを信仰する或る者である。分裂した世界は酒によって繋ぎ止められた。ニーチェがたいして酒を飲まなかったことは、不思議ではない。ニーチェは反吐だった。だから、彼の文章は苦渋と困惑に満ちている。素人には、ニーチェは独断的に見えるのだろうが。

彼の身体が酒を拒絶しなければ、彼は陶酔に満ちた文章を書くことはなかっただろう。芸術的陶酔に浸らなくても、ひとは手軽に酔うことができる。

酒神ほど強力なものがあろうか。これほど美しく、空想的で、熱情的で、陽気で、憂鬱なものがあろうか。酒神は英雄で魔術師だ。誘惑者で、愛の神の兄弟だ。彼には不可能なことができる。貧しい人間の心を、美しい不思議な詞をもって満たす。彼は、私という孤独な百姓を王さまに、詩人に、賢者にした。からっぽになった生命の小舟に、新しい運命を積み、難破したものを大きな生命の奔流の中へ押し戻してくれる。(郷愁 / ヘッセ)
 しかし、よく考えたらのんべえのヘッセも芸術的陶酔のなかに生きた人だった。

私にヘッセのような文章が書ければよいと思う。しかし、芸術作品の産みの苦しみはなんとなく知っている。苦しんでも遂行すべきなのかはわからない。苦しむくらいなら初めからしなければよいのかもしれない。

岡本太郎が子どもを作ることを避けたのはなぜか。「芸術とは、そういう安易な生産を捨て去ることです」という事情からだと、フランスのインタビュワーにフランス語で答えていた。本当かどうかは知らない。

私は安易な生産でもいいという気がする。なぜ安易な生産ではだめなのだろう。なぜ、難解で、高度でなくてはならないのだろう。

芸術も、しょせん、進歩からは逃れられない。昔のバイクは、数馬力だったけど、いまは300馬力である。われわれは、前進している。われわれは、より豊かに、より恵まれた存在になっている。そう教えているのは、結局理性の世界である。芸術は、理性に取り込まれてはならない。理性を破壊するものでなければならない。と思う。




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