2.11.2016

パルメニデスとヘラクレイトス

上司にイタリア料理屋に連れられていろいろ食べた。

本当においしい料理とは、素材のえぐみや苦みを、隠さず示しているものであり、いわば甘さや旨みで媚びずに、料理人の好みを直截に表しているものであると感じた。

甘いだけのリンゴやサツマイモが高級食材であったり、また脂と旨みだけの大トロが好まれたりするが、私にはそういうものがおいしいとは感じない。それはもちろん、不味いわけではないし、日常食べるのには良いが、「おいしいもの」とは違う。

その意味で、芸術作品に通じるものがある。音楽や絵画も、これと似ている。緻密に、繊細に完成されたジャズがあるけど、このようなものを日頃聴くものではない。どのような音楽でも頻繁に聴いていればすぐに飽きてしまうし、日常に不似合だ。少しポップな雰囲気のものの方が良かったりする。また作者の魂を捧げたような絵画はあるが、これを部屋に飾る気にはならない。年に一度、半時間ほど眺めるくらいがちょうどいい。

(それにしても、日本の一般的に売られているチーズの不味さには本当にあきれかえる)

しかし日常の舞台に不釣り合いであっても、それが必ず良いことはわかる。例えば筒井康隆よりゲーテの方が「良い」ということはたいていの人間には理解できるけれども、我々は筒井康隆は何冊でも読むことはできるが、ゲーテをそう熱心に読めるものではない。

同じように、新書は一日一冊でも読むことはできるけど、古典となるとそうはいかない。古典の方がクオリティとしては優れていることはわかる。ただ、親しみやすいのは新書である。

上司が、学生時代はやり手のホストだということを知って、私は驚いた。仕事の知識は豊富だし、まあ、トークがうまいし、人をその気にさせるのがうまい人間だということは感じていた。ただ見るからに、まじめで、神経質そうだから意外だった。そういう人こそ、案外人気が出るのかもしれない。

人を先導することができるということは、人を観察することができるということだ。こういう人間にとって、私はどのようにうつるのだろうと推察してみたが、たぶん十分に理解できないのではないかと思う。

私には私という人間がどうもつかめないが、他者にとっては容易に理解できるのかもしれない…私は他人になったことがないのでわからないが。いちおう、考察を重ねた結果、私という人間の特性をできるだけ客観的につかめたような気になることがある。例えばdegenere=変質者。しかしそれは時と状況によって変化しているようにも思える。

パルメニデスとヘラクレイトス。ヘラクレイトスは、万物の流動を根源的真理としたが……。人間個人も、そう一定であるわけにもいかないだろう。

私のブログタイトルは、「汝自らを知れ」というデルポイの神託が元になっている。自己を知ることが世界を知ることである、と言ったのは、西田幾多郎だったと思う。

ともあれ、元ホストの上司は、興味深い人間なので、よく観察したいとは思っている。

ただ、私はこの仕事をどれだけ続けるべきか、という点で悩ましく思っている。仕事は、ある程度楽しくなってきている。一日の労働時間は、8.5時間から8時間に短縮された。そろそろ一年目を迎える。仕事に慣れてきたし、昇給の時期でもある。使われることに慣れてしまった方が、楽という気がしなくもない。

私の尊敬する文人であるカフカやペソアは、職務を続けながら小説を書いた。カフカは公務員だったし、ペソアはビジネスレターを書いていた。「禅とオートバイ修理技術」のロバート・パーシグも、専門家向けの技術書で生計を立てていた。

退屈な日常があった方が、創造的な仕事に向いているのかもしれないと思う。専業の小説家は、筒井康隆の作品のように楽しげで賑やかではあるけど、絶対的なクオリティは下がる。職業的な小説家が、ふつう生涯をかけた渾身の一冊など作れるものではない。

小説家の作品には、小説家の生活がかかっているのであり、生活が関わる以上、経済と無縁でありえない。それは功利主義、合理主義、効率主義の洗礼を受ける。職業的小説家とは、このようなものである。

だからといって、それらの前提を廃した作品が良いとも私には思えないのである。ヒッピー文化の陳腐さ。ヒッピーたちは、内心では合理主義的生活に惹かれている。そうだから執拗に反発するのである。だから彼らは見た目ほど自由ではなく、アンチ合理主義という点で束縛されている。

良い芸術がどのようなものか、私にはわからなくなってくる。プロの音楽家もさまざまだ。私の技量からすると、信じられないクオリティの持ち主はいる。しかしYoutubeのアマチュア音楽家の音楽が、よほど私の心を揺さぶることもある。

だから、難しい。一筋縄ではいかないと思う。今日はもう寝る。

0 件のコメント:

コメントを投稿