2.14.2016

ニーチェフリーク

疲れた。

金曜日の残業2時間が響いている。

また学生になりないな、と思う頃がある。大学に入る必要はないが、学徒というべきか、勉強一筋に知見を深めるような期間を設けたいと思っている。

人間が生きるための目標とはどういうものなのだろうか、と考える。だいたい、だれかに認められることが、人間の主要な目的であるという気がする。その意味で、真理探求とは真理であるというよりも、普遍的な事実である。たとえば人はだれでも死ぬという点では、それを否定する人はほぼいないだろう。ゆえに、だれでも死ぬという事実は、真理に近い。

真理がなにか超越的存在であるとするのがイデアリストたちだけれども、孤独な人間たちの行う真理探究も、結局は「だれかに認められたい」という衝動の湾曲的なものなのかもしれない。

自分の家を持てば共産主義者にはならない――人間社会で摩擦なく生きていくことができれば、とくに哲学や文学に傾倒する必要はないはずである。太宰治が高血圧であったり、宮沢賢治の摂取カロリーが1.5倍だったらかれらの作品は生まれなかっただろう。

このように私は最近、反知性的というか、知性や理性に対して反抗期的な態度を取っている。例えば今手元には「ヘーゲルからニーチェへ」というレーヴィットの分厚い本があるけども、こういう本を
、昔は好んで読もうとしたけど、今の私は「いったいこんな内容がどんな意味を持つのだろう」と思ってしまう。

例えば今読んでいるところは、ゲーテとヘーゲルが仲良しだった、ことをつらつらと書いているけど、特段私はゲーテが好きというわけでなし、ヘーゲルはもっとよくわからない。

ジャニーズファンが番組を追いかけるのと文学者がゲーテの生涯を探求するのと本質的な違いはあるのだろうか。「ジャニーズは低俗だがゲーテは崇高だ」という人があるかもしれない。たしかにこれは事実である。ジャニーズなんて日本の一部の少女にしか相手にされない。ゲーテは普遍的な価値がある。なにしろ我々を何百年も捉えてきたのだし、また世界中の人に愛されている。

おそらくジャニーズのドラマを好む少女がゲーテを読むことはないだろう。そのように考えると、知性的に優れた人間がゲーテを好むということはある。二層は知的な階級で分断されている。そこで、「知性的に優れた人間が好む」事象は、真理に近いと言えるのだろうか。

仏僧の読む経典は子どもの読む絵本に比べて深遠崇高である、ということは言えるかもしれない。その経典は奥深くとても探求できないほど多様な解釈が可能と言えるだろう。

まあ上記は単にニーチェ風に「真理とは誤謬である」という逆説の影響があるわけだ。

ニーチェの仕事を分析することは私にとってとても重要であるという気がする。彼がしたことは一体何なのか。さまざまな説明はあるにせよ、まだ彼の存在は納得がいかない。今日は善悪の彼岸を読むつもりだが、これは実際のところ、ジャニーズの追っかけと変わらない。


話を戻すと、われわれが何で生きるかというところだけれども、これを考えてみると、まったく難しい。例えば今のように日中は働いて、夜はそれなりの飯を食べて、それなりの酒を飲んで寝るというサイクルも、決して悪いものではないと思う。私の収入は、実際悪くないのだから、結婚して、子どもを産んで、私の父親や祖父がそうしたように再生産を行えば、いちおうは満足いく生活ができるのかもしれない。

かたや、薄暗い部屋のなかで、沸騰した頭脳で書物と格闘し、食うや食わずで研究に没頭する生活というのも、これも楽しそうである。

実存はいかに達成するかというと、どのように生きても実存はできるのではないかと思う。ダス・マン的な生活を、私は否定しなくなった。オルテガの言うように、知的エリートは必要だと思うが、エリートに牽引される凡愚たちにも、それなりの知性が宿っている。

だから私は大衆的な事象を否定しなくなった。実際かれらは幸福であり幸福を実現するという意味では成功者だからである(この事実は田舎に住んでいるとよくわかる)。ひるがえって知的エリートと呼ばれる人間たちは、その高い知性の割にはあまり幸福そうではないという事実がある。

知性とは我々を幸福にするための道具であるとすれば、知的エリートの持つ知性は紛いものなのかもしれない。書物を追いかけるよりも種を植えてヤギを飼う方が幸福なのかもしれない。

このように生活は個々人によって多様であるけれども、ギーター風に言えば「失敗と成功は同一」なのであり、知的エリートも凡愚も同一である、という風に最近は考えている。

だからあらゆる執着を捨てて、何かにしがみつかずに、諦めと、その中に希望を見出して生きていくのが最善なのだろうと最近は思っている。

1 件のコメント:

  1. ニーチェは「ダイナマイト」になり、「無意識」になりました。
    一般的な言語ゲームのルールに精通して生きる人間にとって、ニュースやネットを通じて否応なく見知ってしまうさまざまな事象――悲惨な出来事、反社会的な行動を起こさずにはいられないような動機を得てしまった人たち、我々の少しばかりの幸福の裏で犠牲になってゆく人々――はいったいどのように自身の生の物語の中に位置づけられ、処理されているのだろうか。少なくとも私は、戻ってもいいと言われても、そのような人間にふたたび戻ることはできないと思う。どうだろうか?
    私はあなたの古典的主体概念があなたにそのような物語を語らせているだけだと思う。私は思考の内にしか顕れないし、いつも遅れやってくる、おまけに石のように動かない。私は主体ではなく媒体である。

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