2.16.2016

田舎と金

毎日くたびれるほどに働いているがこれも海外旅行のためだと思えばなんとか生活できる。

ただ言えることは働いて飯を食うだけの生活も悪いものではない。思想的に深化すればそれだけ苦しみも増える。資本主義社会において労働者はすべて搾取されている。われわれは職業選択の自由はあっても職業に就かない自由は事実上ない。本質的にはだれかを儲けさせるために我々は労働力を提供している。それは経営者であったり国家であったり、あるいは別の国家であったり、一握りの富豪であったりする。

しかし我々には毎月金銭が与えられ、それで「自由に」食品や衣類を買うことができる。我々はチキンではなくビーフを買うことができ赤いシャツではなく青いシャツを着ることもできる。

日本人の生活様式は生産から消費に移った。これはアメリカに数十年遅れて達成した。しかしいまはまた逆行しているのかもしれない?私もそうだがとにかく消費というものをしないし、それでもなんだか生きづらい感覚がある。何もかも高すぎるのかもしれない。そもそも相応の賃金を得ていないからかもしれない。

どれだけ金銭を得れば満足できるかは難しいが一般的には年収600万円以上だと幸福度が高いと言われている。おもしろいことにそれ以上稼いでも幸福度は相関しないらしい。まともな家が買えてまともな車が買えてまともな物を食べまともな教育を施せる下限はおそらく600万円程度だと私は考える。日本の一般的な家庭では。

年収1000万円あれば会社員であれば上等だが医者であればまだまだというところだろう。開業医は何千万円も儲けているから。この場合エリートの会社員の方が勤務医よりましということが言えるだろう。

私の住んでいる地方では私と同年代であれば300万円あれば上等だ。地方は疲弊している。ワゴンタイプの軽自動車、色は白ばかり、ときおり下品なカスタム車が爆音を立てて走っていく。不自由が行き詰って腐り、精神がすべて死んだような町だ(まあ私も軽自動車に乗っているのだが)。

年収というファクターが私にはとても興味深く感じる。おそらく人間の生活レベルを規定するのにこれほど明確かつ重要な要素はないからだ。そして生活レベルは、ある程度は精神も規定してしまう。年収というファクターは多くの人が目を逸らしているがかなり重要な要素である。

労働者はだれでも自分の時間を切り売りして生活している。だが自分のその拘束時間でどれだけの対価を得られているか計算する人は少ない。

ただ生活とは金勘定だけで何とかなるものではない。生活の充足感は金だけで得られない。私がもしも文筆家になれるのであれば年収100万円程度でいいからやりたいと思うだろう。また私が計画している旅行の生活は、ざっと見積もって年収-300万円程度になるだろう。

金だけを目的に生きてもしょうがない。しかし人間は金がなければ生きていけない。人より金が欲しいと思うのも自然な感情である。ノーマルな鬱病患者に100万円を与えればそれで治ってしまうのかもしれない。金銭の誘惑は存在する。一度あげた生活レベルは簡単には下げられない。

金が潤滑油となって人間が歯車となって社会は動いている。金がなければだれもが歯車であることを辞めてしまうだろう。

アメリカ的なイデオロギーでは金をたくさん稼ぐことはスマートでかっこいい!とされている。知的戦略の頭脳プレイだ。フォード、ペンバートン、ジョブズなどなど神格化されている。が、実際のところ金は一握りの人間が貯めこんでいる。金を稼ぐとは、この連中に頭を下げることに他ならない。

金銭の追及とはつまるところ資本家や富豪たちへの隷属を示す。金銭でなりたつバベルの塔の柱の一本になることを要求されるわけだ。我々は金と関わる以上はこういった誘惑を認識しなければならないだろう。さもなくば骨が朽ちるまで一本の柱とされてしまうだろう。そういう人間は少し私は見たことがある。また、私もすでに柱の一本になりつつあるのかもしれない。

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