2.17.2016

魯迅

昨日は不快なことがあり家に帰るなりポテトチップスと強めの酒を飲んだ。それきり酔いつぶれてしまった。

今朝は吐き気と風邪に似た症状により大いに苦しんだ。ほとんど仕事にならずかなりの業務が残ったがこういう日はさっさと寝た方が良いので定時の17時半で帰った。

だが家に帰ることを考えると暗い気分になるので(大抵無為な時間を過ごすだけだから)、いつもの図書館へ行って久しぶりに本を借りた。魯迅についての本と、京大のなんとかいう先生の書いた本。

魯迅は日本の医大におけるエピソードが好きなだけの特に関心のない人物だったが、なんとなく気になったので借りた。最近中国という国の存在感がいやに大きいせいもある。

表紙には「魯迅は中国の近代化に貢献した」と書いてある。そこで私は少し警戒した。近代化とはおおむね民主主義と合理主義と科学主義、まとめて西洋イデオロギーとでも呼ぶがこういったものの浸潤であり、侵攻であり、「進歩」ではないというのが私の考えである。

科学は我々に恩恵を与えるが知らず知らずのうちにそれはドグマと化して我々を支配する。

気になったのが魯迅はダーウィニズムに傾倒していたということであり彼もまた「進歩」に取りつかれたのかもしれない。もちろん当時は中国を近代化しなければ他国に支配されるという緊張があっただろう。阿片戦争と日本軍による侵攻という亡国の危機により近代化の必要は喫緊であった。

魯迅はある意味中国を救ったかもしれない。本によれば毛沢東が魯迅の大ファンだったということでありその影響は甚大である。

ただ私から見ればぱっとしない人物であり、私のなかでは新渡戸稲造や内村鑑三と同じカテゴリにいる。とかく世の中で偉人とされている人物でも、本当に人間性が優れているか、模範にすべきかというとそうではないことがあるものだ。

まあ読書感想はどうでもいい。

図書館で借りたもう一冊の本は「哲学の三つの伝統」というものでありこの「三つ」とはどうやらギリシャ思想・インド思想・中国思想の三つを指すらしい。

先の魯迅は中国思想、というか儒教思想を批判し西洋個人主義を取り入れようとした。魯迅は小説家だが、小説という媒体はまことに西洋イデオロギーの普及に合っているようだ。

「魯迅は近代化を小説で成し遂げようとした」と本には書いてあるが、実際我々の国でも近代化は小説家が実現したのではないのか。小説がもっとも輝き華やいだ時代とはまさしく日本が近代化しようというときであった。近代化が成し遂げられると途端に小説はほとんどだれも見向きしないものになった。

小説が近代において唐突に現れたのは西洋においてもそうであり、200年ほど前では小説は個人が読むものではなかった。それは声をあげて朗読するものだったのである。だから劇や歌のようなものであった。

近代化は果たして正しいのかが私にとってかなり興味深いテーマである。というのも、現実に私は西洋と東洋の狭間にいる。日本的な企業に勤めているとそのあたりのことを強く実感することができる。

私は経営者の言い分もわかるし、法律的に彼らが間違っていることもわかる。この狭間にあってどうすればよいのかわからない。この葛藤はなんともしがたい。

ただ、私のなかでなんとなく西洋イデオロギーは気に食わないものになってきている。かつては西洋イデオロギーこそが正義だった。私は個人主義者であり、法と科学の信仰者だった。ただそういった信仰の時期が終わった。

私のこういう信仰を打ち砕いたのはニーチェだった。ニーチェを初めて読んで数年になるがかつてはだいぶ誤読していたように思う。西洋イデオロギー、プラトニズム的価値観の相対化という点ではニーチェほど優れた論者もいないと思う。ただ彼も西洋を批判するので精いっぱいで新しい道を示しているわけではない。「超人」という一応の解はあるが、どうもぴんとこない。

まあニーチェも読んでいこうと思う。今日はもう寝る。

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