2.24.2016

つまらないおっさんの話

どんな仕事でも時間と体力の余裕さえあれば創造的に取り組めるということをここ数日で感じた。

とにかく暇である。少し仕事をしてまた暇になる。そんな環境だから本をめくったりパソコンでニュースを見る。地元出身の社員と、おいしい料理店や余暇の楽しみ方を話してみる。二十歳そこそこの女性社員と、犬派か、猫派か、そんなことで花を咲かせる。私と合わない人間は、だいたい犬派なので、「やはり」となる。

それにしても、遊んでいる間にも給料は発生しているのだから、どうも落ち着かない。そういうわけで、ちょっとした整理や掃除をしたり、業務改善の草案を考えてみたりする。

職場の環境整備というのは、楽しいものである。これは絵の飾られた家に住むよりも、どんな絵を壁にかけるかを考える方が楽しいのと同じである。その行為が今後、ほとんど永続的に影響を与える。これは日常的な仕事の消化(こなしてはまたわいてくる仕事)とは違ったニュアンスがある。

ここ数日の私は、たいへん健康になったように思う。性欲も年齢相応に戻った。仕事が終わったら、楽しみに興じてみたいと思うようにもなった。孤独に閉じこもるのではなく、恋人のひとりでも作ってみようかと思うようになった。私はどこにも属すことのできない孤独な精神異常者ということをしばらく忘れることができている。

私の生活は、そう悪いものではない。定時であがり、人間関係も悪くなく、業務は楽で、給料は高い。ただ、企業規模は小さいが……。こんな仕事であれば、だれもがやりたがるだろう。私の下腹部にはだらしなく肉がつき、ブルジョアじみている。

私は下流の労働者の子どもが通う高校を出て、そこそこの大学に行ったから、社会的な成功者を知っているし、また負け組の人々も知っている。私が子どもの頃は、負け組の生活はそこまで悪いものではなかったと思う。だが、私が大人になるにつれ、彼らの生活は本当に厳しくなっているように思える。これは、単に私が社会を知らなかったせいかもしれないが。知恵のなく貧しい人間から犠牲になる。

日本人が不当に搾取されているのは、敗戦国だからだろうか。日本はゆたかな国だとは私には思えない。戦後とは、ずっと暗黒の時代だったのではないかと思える。右を向けばアメリカ、左を向けば中国、ロシア。地政学的には日本という島はほんとうに要所なのだろう。

アメリカに日本を与えようとする勢力はあるし、中国や朝鮮に与えようという勢力もある。そういう時代である。いずれにせよ日本が主権国家であるという認識はあまり沸かない。このあたりの悲哀はやはり敗戦国の宿命か。

西洋と東洋の違いを勉強しようと思っているが野田又夫氏の書籍はけっこうためになる。

しかしながら中国の社会がそのように理性的秩序をもつとしても、それは静的な統一のみを示し、動的進歩の趣きが認められない、という反省がつづいて現れる。これは上のヴォルテールの引用文の後半にすでに暗示されているが、いわゆる「秩序」と「進歩」という二条件のうち、中国では「秩序」のみあって「進歩」がないという批評が出るのである。典型的なものはアダム・スミスの規定であって、中国社会が「静的社会(ステイショナリ・ソサイエティ)」である、という。この考えは、その後いわゆる「東洋的停滞」という言葉で、西洋の東洋に対する批判的態度の共通な要素となるのである(例えば次のロマン主義の時代におけるヘーゲルの歴史哲学でのアジアの扱い方も同じ考え方に基づいている)。(「哲学の三つの伝統」)
今となっては、「静的」だった中国という国が台頭しようとしている。中国が世界をおもしろいようにかき乱してくれそうである。凡庸な生活を送る私には、楽しみを与えてくれる国である。「静かに進むものが、もっとも進む」とだれかが言った。


1 件のコメント:

  1. >>知恵のなく貧しい人間から犠牲になる
    that Amartya Sen had pronounced the same idea, you may be interested in his writings on human security in social instability.

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