2.25.2016

つまらないおっさんの話②

私はただのおっさんとして空疎に生きていくのが良いのかもしれない。おっさんとはいい響きである。なんと言うこともない、引っかかりのない言葉だ。抵抗を感じない。何かに制限されない。良い言葉だ。

人生に充実を持って生きるということ。行為に没入するということ。であれば、絵を描くことの方が、漢字の書き取りよりは適切だろう。仕事のなかにも、絵を描くことと、漢字の書き取りとがある。最近の仕事は前者なので、私は仕事に楽しみをもって過ごすことができる。

シモーヌ・ヴェイユの労働日記を読む。彼らよりはずいぶんましな生活だ。彼らの仕事の退屈さは、漢字の書き取りの退屈さだ。それに比べれば、植物の世話をしている方がまだましだ。

また、私には他者を気づかう心が生まれた。というのも、この無能な(ある意味では有能な)経営者の元では、多くの社員が苦しんでいるからだ。そこに切り込みを入れたのが最近入社した元ホストであり、私はこのホストの影響で、同じように社員たちを気遣うようになった。ホストが入社して4か月ほどだが、彼なしではこの会社は成り立たないくらい有能な人間である(小企業だからこういうことがある)。

それにしても、私が他人を気遣うことになるとは思わなかった。私はあくまで、東洋集団主義に対する個人主義者だったつもりだけど、他人が不当に搾取されているのを見て、西洋的に「彼らは無知無能だから啓蒙してやろう」と思うのではなく、同族、血縁的関係として、感情として助力する気になった。こういったことは、大学時代にはありえないことだった。

大学時代は、私には個人としての自己がほとんどすべてであった。ひとりで生きていくつもりだったが、まあずいぶんと心境が変わったものである。西洋と東洋、揺れ動いていたように思う。学生だった頃は、西洋がすべてだった。しかし今は、西洋を相対化したということが言えるだろう。

都会でのことは、まるで知らないが、田舎で生きていく分には、現在それほどストレスもなく、快適である。しばらく日々の満足を楽しみたい。

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