2.27.2016

田舎の女性の好意

どうも覇気のない生活を送っている。人間、十全に快適に生きることができれば、何も記述する必要はないだろう。

それと同じような記載を、「善悪と彼岸」のなかで見つけた。詳しくはここでは書かないが……。

「善悪と彼岸」は良い本である。私のなかで、良い本とは、重量を持っている本、随って密度のある本である。私がこの本を初めて読んだのは数年前だけど、そのときとはまったく違った本のように私には思える。違った関心を持っていながら、同じ本に行き着くときがある。そういった本が、密度の高い本と私は考える。

新しい部署は、あたたかく私を迎えてくれた。余暇は何をしているのか、と問われ、私は、「バイクで走っています」と答えた。「ほかには?」と問われたので、「バイクをメンテナンスしています」と答えた。これが少しウケたようだ。

新しい部署の女性社員が、20歳と、24歳で、私にはかわいらしく思える。このうちの24歳の方――身長の低い、機敏な、猫のような女性――が、私に少なからず好意を抱いているように思える。

私はただのおっさんだが、多少の女性の機微くらいはわかる。「彼女はいないんですか」というときの、彼女の声のニュアンスで、それとなくわかった。

田舎の女性は、やはり朴訥としていると思う。ある種の技巧的な洗練が感じられない。都会の女性は自己を複雑に入り組ませたがるものだ。奥深さは男の好奇心をそそる。単なる女、単純な生娘では相手にされない。田舎の女性は、その点では直截だ。

まあ相手にはしないと思うが……。

昨日は職場の連中の勧めで、温泉に入ってきた。湯につかる。何もすることがない。……何もしない時間はひさしぶりだった。何かを見つめない時間の貴重さを知る。パソコンにせよ、本にせよ、対象とする何かを追っていては、不自由なのかもしれない。露天風呂に浸かりながら、虚空を眺めていると、いろんな雑事の整理がついたという気分になる。



私はこれで良いのかもしれない、と感じた。私は神経症的だったが、いまはそうではない。しかし、神経症的だった過去の自分を私は肯定できる。かつて私は正しかったし、今は正しいということができる。

これが、神経症の治療だろうと思う。過去を捨てて、新しい自己にはなれない。また自己を捨てて、他者になることもできない。自分の運命を受け入れるということ。月並みだが神経症とは、それによって治療され、そこから人生が始まるということもできるだろう。

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