2.06.2016

感情対理性

我々はなぜソクラテスやプラトンを崇拝するのだろう。ソクラテスは処刑された。アテナイの判決によってだ。

ソクラテスは批判された。数々のソフィストたちに。なぜ批判されたのか?ソクラテスが正しいとするならだ。

たしかに、ソクラテスは論理的には正しかった。彼の明晰な頭脳によって展開された論理にはだれもが従ったわけだ。

単純な嫉妬ややっかみ、あるいは偏見によってソクラテスが批判されたわけではないと私は思う。当時のアテナイにおいて、ソクラテスは悪だという考えが、ひとびとにあったのではないかと思われる。それはたぶん、非理性的な面、感情においてだ。

しかし、非理性的な側面は、言表がたいへん難しい。たとえば我々がサッカーで遊ぶとして、それを「楽しい」と感じることはできる。またそれを「楽しい」と表現することはできる。しかし、「論理的になぜサッカーは楽しいのか?」と問われると、俄然難しくなる。

サッカーの楽しさを説明することも、ソクラテスが悪であることを説明することも、ひとびとには難解であったと思う。それと反対に、明快な論理を組み立てて、他人を説き伏せることは、簡単である。

「ソクラテスは論理的に正しいことを言っている。だから彼は正しい」と言うことはできるのかもしれない。しかしそれは、理性という神話体系の中でのみだ。ギリシャ神話は稚拙なおとぎ話となり、論理が次なる神に台頭した。

理性的であることが正しいとされ、それ以外の文化風習は「狂気」であるとみなされた。定義、証明、分析のような技術が、単なる技術ではおさまらなくなり、人々の願いによって、神器へと昇格した。

このような価値観は、まだギリシャに残っていた無意識的、非理性的な文化風土を荒廃させるものだった。だからソクラテスは殺された。と、私は稚拙ながらそう考えている。

合理主義、あるいは理性主義は日本にも蔓延している。論理的には正しいが、感情的には正しくない事柄に多くの日本人は戸惑っている。たとえば、労働者が自分の権利を主張すること、子どもと親が対等の人間であること、市民が国家と契約を交わすこと、などなど、西洋由来の価値観に、われわれは必ずしも馴染んでいるわけではない。

労働とは奉仕・丁稚であり、子どもは親に尽くすのであり、国家権力に市民は服従する、そういう前世紀的な価値観は、われわれの間にまだ残っている。

そうだからサービス残業とか、人権侵害、形だけの民主主義、法治主義、が横行し、諸外国に批判されるのである。

たしかに、我々はサービス残業を強いる経営者に対し不当な扱いを解消するよう要求することはできる。ストライキも法的に許されている。しかし、日本の労働者はストをしない。挙句の果てには過重労働の末に自死することもある。

論理的には「労働者の権利」としてストをする権利がある。これが西洋国であればストで電車が止まってもほとんどだれも文句を言わない。しかし日本ではそうはいかないだろう。日本人はストライキは論理的に正しくても、感情的には正しくないと考えていることがわかる。そうして、感情的に考える人間が日本人なのである。

私がかつて、日本の文化風土になじめず、たいへん苦しい思いをしたのも、日本人とは感情に生きる人間であり、論理的に正しいことをなかなか認めないということを知らなかったからである。私が論理的に説き伏せようとしても、彼らは「理屈じゃないんだ」と言った。私は混乱した。が、今は少し理解している。

だが今考えると、かつての私はソクラテスやアリストテレスと同じ立場にあり、「理屈じゃないんだ」と言った日本人(私も日本人だが)たちは、その反対者であるソフィストたちであると言えるだろう。ギリシャではソクラテスが(結果的に)勝利したけど、日本ではどうなるだろうか。水面下で感情対理性の思想戦争が行われているのかもしれない。








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