2.08.2016

不安の概念

死にたいという感情が一度意識層にあがると、それが止まることなく連鎖し増長していく。死という概念が引力を持って、すべての行為の帰結が、死へと捻じ曲げられていく。仕事がつまらない。死ねばいいんだ。料理が失敗して不味い。死ねばいいんだ。ハゲてきた。死ねばいいんだ……。

上記のような体験をした。私はこのような感覚はあまり体験したことがなかったので、なんだか鬱病患者の心理を知ることができたように思って、少し貴重だと感じた。「死にたい」という言葉が、これほど有益に・実際的に感じられることもなかった。

神経症が防衛的な症状であるということは何かの本で読んだ。ストレスや、死に向かうような抑鬱的なメンタルの異常に対し、潜在意識の計らいによって、人は神経症になると。たとえば、神経症患者はガスの元栓が閉まっているか気になって、何度も職場と家を往復してしまう――というような症状があるが、ガスの栓などは「どうでもいい」ことであり、「どうでもいい」ことに執着するからこそ、人生の大問題については無頓着であることができる、という風に病理学的に考えることもできる。

私はどうにかこうにか神経症から健常者へと戻ろうとしており、一応はまっとうな人間として職務についているが、神経症的な傾向がなくなれば、それは全人類に共通の、不安uneasinessに生身のまま立ち向かわなければならないということになるのだろう。そうなると、今度は神経症と戦うよりも、より根源的な問題である、uneasinessの解決に取り組まなければならないということになる。

それにしても、この不安という概念は、人間につきもののようであり、これを解決できた人間は、おそらく仏陀ぐらいのものだろうと私は思っている。これに対し、解決不可能な問題として受容するのか、あくまで解決可能として奮闘するのかは個々人の思想に拠るだろうが、私としてはもう、不安とは付き合って行くしかないと思っている。

私の人生はこれでよいのか、という疑問。これが消えることはないだろう。ニーチェの良いところは、永劫回帰の概念を持ちだして、これを解決し(ようとし)たというところにあるだろう。私の人生は、しょうもない人生、恥と汚辱に満ちた人生だが、これは何万回も繰り返される。こうでなければならないes muss sein。

そういうわけで、不安は解決できるかはわからない。結局、ニーチェも道標を指し示すことはできたけれど、それを実現した「超人」が存在するのかは、私にはわからない。ただなんとなく、執着をなくせば、平穏に生きることができるという気がする。

しかし、執着がなくなれば人はどう生きていけばよいのだろうか。私にはそれがわからないので、戸惑っている。たとえば芸術家という人間がいるが、彼らから執着をなくしてしまえば、もう職業的な味気ない作品しか生みだせなくなると思う。たとえば高みに昇った人間には、世間的な金銭などは大した価値を持たないし、また名声もそうである。そういう次元に到達した人間に、芸術作品がどういう価値を持つのだろう。

人の動力源として、怨恨、苦痛があるけれども、我々はこの苦痛から解放されるべきなのか、あるいは苦痛から目を逸らして生きるべきなのか。これは、昨今なんども繰り返したように、西洋と東洋のイデオロギーの違いになるので、難しいことである。私にはこの難問は解けそうにないが、まあ考えてみたいとは思っている。


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