2.09.2016

読書と陶酔

久しぶりに「禅とオートバイ修理技術」を読んだ。これは、いい作品だ。

以前読んだ本を再度読むと、自分がどれほどその作品に影響されているかというのがわかってくる。私は今、西洋対東洋――西洋合理主義の相対化、つまりアンチプラトニズム的な思想に傾倒しているけども、そういった今の傾倒はこの本の影響もあるようだ。

自分の思想がどれだけオリジナリティを持つかと思うと、ほとんどないということを知らされる。しかし、人間の記憶とは複雑なものだと思う。おそらく、表層意識まで昇らない記憶も、無意識層に蓄積されているのだと思う。一度忘れてしまった事柄を、十年経って思い出すこともある。無意識に蓄積された読書体験が、知らずのうちに人間を方向づけることもあるらしい。

この本はタイトルに似合わず本格的な哲学書であり、おそらく一般的なバイク乗りにはほとんどおすすめできない代物である。そして禅好きにも勧められないだろう。この本は、ニーチェと同じくアンチプラトニズム的な思想書である。つまり本質的に現在まで続く西洋思想に対するカウンターであるから、西洋合理主義にいったんはかぶれた人間でないとあまり共感できないと思う。だからアメリカでヒットしても、日本ではあまり共感を得られないのではないかと私は思う。


それにしても久しぶりに良い読書体験をした。

完全に読書に没我するという経験は、就職してから稀になってしまった。こういった読書体験は、なかなか微妙なバランスを要求されるのである。

適切な環境でなければならない。環境に、人間が数名いなければならない。無人では、なかなか難しい。質の高い音楽を聴いていること。防音性から、カナル型のイヤホンが好ましい。モーツァルトでもいいし、カート・ローゼンウィンケルでもいい。なるべくカフェインの摂取を多く。仕事が終わって、解放されたときがいい。少なくとも数時間、本を読み続けることのできる時間的余裕を。

大学の図書室が、そのような環境であった、今でも思い出す、あのときは読書に耽っていた。図書室でもっとも分厚い本を借りて(たしか人類文化学の本だった。数千ページ)このような本を丁寧に読むのは、この大学で私だけだろうと思った。しかしそれも数百ページで頓挫したのだが……。

大学の図書室。懐かしい。ジャック・ランシエールとか、デリダやフーコーとか、フーバー、E.フロム、いろいろあったものだと思う。とくに、E・フロムを読んで、私は初めて読書の楽しみを知ったのであった。

まあ、人生いろいろな転機があるものだと思う。懐かしく思ってもしょうがないものだ。私の日常は、死んだように怠惰に満ちている。大学時代の、読書に対する興奮と情熱は、いまはもう稀にしか体験できなくなった(こうした体験が、私を若返らせることは本当に不思議だと思う)。

しかし、人間はつねに一定にあることはできず、誕生から滅ぶまでを不可逆的に進行するものだから、私の頭がハゲたとしてもそれは戻らず、筋肉が脂肪となることもたいていは戻らず、私の頭脳が活発な思考を退け怠惰な日常に停滞するとしてもそれは戻らないのだと思う。こうした先に、私はどう折り合いをつけるのか。どうつけるのだろう。

私はまるきり子どものままでいるようだし、何ら人生の迷いのない老人になったようにも思える。田舎には、私を相対化してくれる対象がいないから、こういうことになるのだろう。かといって、都会に戻ろうという気もおきない。都会は、私の頭脳を若返らせ、活性化することはできるだろうけども、いくらそういう効果があったとして、私がいずれ老いて朽ちることには変わりない。

まあ少なくとも海外バイク旅行はしたいと思っている。


Zhivago - OJM + KURT ROSENWINKEL



1 件のコメント:

  1. 『禅とオートバイ修理技術』20年以上前に飛ばしながら読んだことがありました。バイクに乗るので、旅の部分は共感を覚えながらすいすいと読み、哲学の部分は飛ばした。ところが、昨年文庫版を見かけたので懐かしさからか買って読んでみたら、若いときとは逆に今度は哲学的考察に注意が向き、集中して3日で読み終えました。以前は涙を流さなかったけども、歳のせいで涙もろくなったことも関係しているのかもしれません。確かに良い作品です。ブラウジングしているうちにここに辿り着いたの、同じく共感する者として、コメントを残していきます。

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