2.12.2016

zack

まったくこのような日常は、耐えられたものではない、と思う。私はすでに終わってしまった人間なのではないかと考える。

職業の必要から、私は会話をする必要を強いられるから、学生時代とは反対に、私は饒舌であることを強いられている。

驚くべきことに、このような職場に私は適応してしまった――というか、職場が私に適応してしまったようで、私のおかげで業績があがったとか、そういう風に褒められることがたまにあるくらいだった。私が長く勤めてくれるだろう、と周囲の期待もあるようだ。私も、この職場で私が消えたら、しばらくはこの会社の業務は破綻するだろうと思っている。

今日はバレンタイン・デーのチョコレートを、女性社員からもらった。もちろん義理ではあるけれど。職場の人間と、軋轢なくやれているという現実が、信じられないものである。1年前の私は、それまで人間とうまくやっていくことができなかったから、きっと現在の職場でもうまくいかないだろうと思っていた。

どのような環境にも、人間は適応してしまう。それは生きるための必要からだ。他人と十分に意思疎通ができれば、読書や執筆にこだわる必要はない。それは、だれかが言ったことだが、「だれでも自分の家を持てば、共産主義にならない」のである。

まあそれにしても読書をしなくなった。それに、たいへんラフにモノを書いている。相変わらず、ここでは自由に気兼ねなく書いているが、かつては何か思想家や文筆家のようなものものしさを無意識的に志向していたようだが、今は別にそういうスタイルに、あこがれのようなものを持たなくなった。

質を高めること、クオリティに優れた文章を書くこと、これは重要だと私は思うが、それにしても、技術や見てくれに偏向するとろくなことにならないものである。

音楽についても、気の向くままに数曲やってみるというだけで、昔のように退屈な基礎練習に明け暮れるということはなくなった。だから、現在の私は以前よりだいぶ下手なのだろうが、気ままに脱力した演奏も、それはそれで味があるのではないかと思っている。

何かを人と競う、という気が一切なくなってしまった。だから私は、お前はバカだ、と言われれば、むっとするにせよ、正当性のある主張であればそれはすんなり受け入れてしまうと思う。実際、私は記憶力が弱く、また機知にとんだ会話をすることができない。長く話していると、だんだん疲れてきて口ごもってしまう。肉体的にも会話を拒絶して、声が枯れてくる。酸欠気味で意識がぼんやりしてくる。そういう有様だから、私と会話した人が、あいつはうすのろだ、と言ってきても、私はそれは正当性がある、と納得してしまうだろう。

学生時代は自分が有能でなければならないと思っていた。大学という科学の場はそういうものだった。より多く記憶した者が偉いという世界だった。

今では、もうそういった細々としたものはどうでもよくなった。世界が一個に丸く完結してしまったような感じだ。定義は世界を分割するから、本質的に悪であると思う。世界は定義不能だからである。

世界とは、他人との共有である。ゲーテを猫に読ませても理解できないだろう。それは猫に知性がないから、と我々は思っている。しかし、例えば犬の嗅覚を我々は持たないから、犬の感覚世界を我々は理解することができない。猫がゲーテを読めないのと、人間が嗅覚世界を持てないことと何が違うのだろうか。犬からすると人間は愚鈍なのかもしれない。

私の上の思想(と大げさに書くが)は、しょうもないものなのかもしれないが、難解な思想と、何が違うのだろうか。それらは高尚に感じるから、事実らしく見えるだけである。大抵のアリストテレス系の西洋哲学はそのようなものである。芸術が良い点は、そういう退屈さと空虚さから基本的に無縁であるところであり、その点ニーチェの思想書が芸術的であるのは、べつだん彼が遊び心に富んでいるからではなく、その芸術性が哲学的主張の一要素なのである。

今の私は表現力が落ちている。私の現状の言表不足、言語能力の衰退は、そのまま私の自己意識の消失、理性的判断力の低下を示しているのだろう。その点、私は動物に近づいているということができる。動物に近づいた方がよいのか、人間として崇高な使命に生きた方がよいのかわからない。西洋プラトニズム的には、イデアを追いかけろということになるし、東洋アニミズム的には、自然に逆らわず生きよということになる。このどちらの性向が良いのかわからない。

こういう二項対立は難しいがコペルニクスの転回的な解決方法があるのではないかと思っている。たとえばパソコンは0と1の信号のみで成り立つと言われているが、これは正しくない。実際には「無」がある。パソコンに電源が入っていないときである。

このように「それ以前」の状態、西洋にも東洋にも行き着かない究極に根源的な思想、そんなものがあればよいと私には思える。

西洋に行き着いても、東洋が私の尾を引くし、東洋の怠惰にあると西洋が輝いて見える。そんな直線状を行き来してるだけでは進歩がないだろうと考える。

とにかく、日常がつまらないので、何とか生活を向上させたいと思っている。

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