3.12.2016

パラダイムシフト

思考とはなんであるかと考えてみるとこれはどうやら言語的なものであるらしい。ある客体Aがあるとして「Aは(BやCではなく)Aである」と認識する原理的なプロセスがなければ成立しえない。例えば「Aは(Aではなく)Bである」という命題はあってはならない。「イルカはイルカである」、「イルカは魚ではない」と言うことはできても、「イルカはイルカではなく、魚である」と言うことはできない。

西洋思想はとことん「思考」というものを突き詰めたらしい。ゆえにデカルト流の詭弁めいた結論が生まれたわけだ。

西洋思想の根幹は「AはAである」という言語を成立させている第一原理をいったん疑うことで、相対化することができる。例えば私の前に時計があるがこれはほんとうに時計なのか?と疑うことはできる。「これは時計ではなく……」ではなく?ここから先は言語的思考の外になる。端的に言えば狂気の領域である。

西洋思想は言語的営み以前あるいは外の領域を「無」として片づけようという性質があるらしい。なるほどハイデガーによれば「死の不安」から目を逸らし気ままに生きようという人間たちを「ダス・マン」として、有象無象の小市民として、こき下ろしているけども、哲学的懐疑に捕らわれて、天空や足元ばかり見て前に進めない人間よりも、ある意味でそういった楽観的、刹那的な生き方をしている人々の方が、より「健康」であると言えるかもしれない。いや紛れもなく健康である……。

狂気がいかに近代以降の西洋社会において排除されていったかはフーコーの「監獄の歴史」に詳しい。もうあまり覚えていないが……。ともあれ狂気は必要から排除されたのであり、また現代では治療すべき病気であるとされている。例えば会社のプレゼン発表で緊張してどもってしまう、というようなことも障害、広義の「病気」であるとされ、治療対象となる。

統合失調症の「言葉のサラダ」はだいたいにおいて「AはAである」の原理が破壊されている。かつての日本においてもこの類の言語破綻者、妄想者、狂気の人間は、けっこう尊重されており、どこからともなく現れては退屈な日常に倦んだ村人を愉しませ、飯をもらって去っていくのだという。

話を戻せば我々は西洋的な合理主義に飲み込まれないように注意すべきだと思う。我々の生活は必ずしも「AはAである」という原理に規定されないはずである。我々が論理的に自分の生活を支配しようというとき、自然のままの精神が抑圧されるということがありうるのである(これは神経症の病理でもある)。

だからときには東洋思想に立ち返ることが必要なのだと思う。そこでは必ずしも「AはAである」が成り立つわけではない。とくに平気で矛盾を肯定する禅のような宗教ではそうである。

西洋医学では治療不能の患者が、東洋医学の針灸や漢方薬で改善する、ということは珍しいことではない。これと同様に、西洋思想にも限界がある。

とくに最近は、ひろく世界的に、西洋思想の限界が認識されていっているのではないかと思う。ゆえに、思想的なパラダイムシフトが起きるような予感が私はしている。西洋思想の新たな潮流の誕生と、東洋思想の勃興がちかぢか起きるのではないかと思う。

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