3.18.2016

世界認識

コーヒーをすすりながら、時に音楽を聴きながら(無線イヤホンで)、ネットの古代エジプトに関する記述を、数時間読みふけっていた。勤務中にである。

勤労意欲などもとよりなく、暇があれば読書やネットという日々だが、賃金は確実に発生しているのであり、時給換算でコンビニバイトの何倍の金が入ってくるのであり、このような環境が特権的であることを感じながら、しかし個人としての私は特別違和感なく日々を過ごしている。

仕事がないことは決して楽ではなく、自分の在り方や目的意識といったものにしがみつくことができず、多くの人間が就職とともに忘れてしまう索莫とした不安といつまでたっても相対することを強いられ、さながら留年生のごとくである。

仕事の達成による、いわゆる実存体験から疎外されるのであって、私の生活には協調的に他者と目標に打ち込む充足感もありえない。しかし前の部署のような多忙な空間におかれれば、今度はうんざりして死にそうになるだろうと思う。だからまあ、しばし閑職に落ち着いて、ゆっくり隠遁生活でもしたい。


ニーチェを相変わらず読んでいる、ニーチェのすばらしいところは、搾取を肯定しているところである。
生そのものは本質上、他者や弱者をわがものにすることであり、侵害することであり、圧服することであり、抑圧・峻酷であり、自らの形式を他に押しつけることであり、摂取することであり、少なくとも、最も穏かに見ても搾取である。(「善悪の彼岸」)
強国はつねに搾取の構造が見られるものだ。アメリカ、中国の支配構造は縦型である。ロシアもおそらくそうだろうし、日本もまた強国であるから、搾取型の社会である。残念ながらドイツは強国でなくなった、かもしれない。
いましも到るところで、科学的な仮面をすらつけて、「搾取的性格」がなくなるはずの社会の来るべき状態について熱狂的に云々されている。――これは私の耳には、有機的な諸機能を停止した生といったものの発明を約束することのように聞こえる。「搾取」とは頽廃した社会や不完全で原始的な社会に属するものではない。それは有機的な根本機能として、生あるものの本質に属する。それは生の意志そのものにほかならぬ本来の力への意志の一つの帰結である。(同上)
以上の文章からわかることは、ニーチェの有名な「力への意志」とは、「搾取的な性格」のことであるが、この点を誤読している人間は多いところが不思議である。

これが理論として革新的なものであるとしても、――現実としてはそれはすべての社会の根本事実なのだ。せめてこれを認めるほどに自己に対して正直であってもらいたいものだ!(同上)
というわけで、民主主義的な「奴隷道徳」によって世界を観望することを辞め、世界の生の姿、搾取・支配・圧服・侵害といった、複雑・流動的ダイナミックな世界観を取り戻すことが大事なのであり、そうしたニーチェの主張は現代においても極めて重要なものであると私は考える。

0 件のコメント:

コメントを投稿