3.19.2016

セックスはどこに消えたのか

セックスはどこに消えたのだろう。と、こうも自慰ばかりで済ませていると感じてしまう。

北海道へ行く夢を見た。北海道は一部が水没していて、最初は氷河かと思った突起は、ビルの頭だった。函館がつまらなかったので、札幌へいきたいと思って、夜行バスで乗り合わせたうさんくさい金のなさそうな連中と、知らない老人ひとりを加えて、タクシーを相乗りした。タクシーの料金は全員で1000円だったし、すぐについた。休みが、三日しかないから、いろいろなことをしたいと思ったが、結局何もできずにホテルで寝た。そして起きた。起きて、いつもの寝床であることを確認すると、嫌な気分になった。

セックスはどこへ消えたのだろうと考える。古代では、セックスは、食事と同等のものとされていた。それは健康のためある程度必要なものである。

過食が身体に毒であり、また不徳、愚昧とされるように、過度の性向も不徳とされた。しかし、正常なセックスは当然許されていたし、ときには同性愛も嗜好された。

韓国は経済を奪われているが、日本はセックスを奪われている。代償としての、ロリコン趣味が、外国で話題になっている。

夜這いとか、春画、あるいは神話にまつわる性を考えてみると、日本人は古代と同様性に寛容だったはずである。その日本人が、世界一セックスをしない国になったのはなぜなのだろう。

その反発としてか、海外旅行へいく女性は、行く先々で現地人とセックスをするので話題になっている。これは数十年前からうわさされていることだが、ほとんど事実のように思われる(また日本人男性のセックスの下手さもたぶん事実だろう)。

もっとも、海外へ行くだけの行動力がある女性であれば、性的に奔放ということがあるかもしれないが、外国の女性は貞節をある程度保つことを考えると、もっと問題は根深いように思う。たとえば国境で賄賂代わりに乳をもませるという話を聞くと少し度が過ぎているように思う。

大和なでしこという偶像は明治以降につくられた。これはたとえば「サザエさん」の「波平」のような「雷親父」と同様である。また、「寡黙で厳格な武士」というのも明治以降作り上げられた虚像である、と私は思っている。「葉隠」は「武士道とは死ぬことでござる」、といきまくけども、そう声をあげなければならないほど当時の武士はだらしない存在だった(泰平の世だし)。

どうも明治政府以降、日本人のアイデンティティが作り変えられているように思うのであり(その意味ではサザエさんは巧妙に印象操作をする国家的な統治のシステムともいえる)、その作り変えられたモデルによって、勤勉で正直といった日本人像に当てはまるようわれわれが志向させられてる、というふうにもできるかもしれない。

われわれはこういったスティグマから自由になるべきなのか、あるいは国家の統治に「共犯的」に、血縁的に関わりあっていくべきか、どちらが正しいのかはわからない。

ただ古代人の性の奔放さ、屈託なさを考えてみると、少しうらやましくなった。もう私はセックスをしなくなって1年になる。やり方も、女性へのアプローチも、女性の魅力も、しだいに忘れていっているようだ。

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