3.21.2016

回復の記録

憂鬱な気分は、しだいに回復していった。

暖かくなったせいか、やけにかかりの良いバイクで、海沿いをのんびりと走ったこと、いつもの公園に行き、海を眺めたこと、いつもの猫に餌をあげたこと、公園で、歌う老人を見たこと、商店街でバイクを流していると、前に走っていたスクーターのおばちゃんが、横に停め、もうひとりのおばちゃんと陽気に挨拶をし、世間話を始めたこと、日の光があたたかいこと、風が冷たくないこと、空気が澄んでいること、などから、私の精神的な闇の底、というか、時間が止まってしまうような、心がからっぽになるような恐ろしさから解放されることができた。

それにしても、公園で海をぼんやりと眺めていると、猫の鳴き声がして、私、というか私の缶詰を求めてやってきてくれるのは、感動的ですらあった、些細なことではあるけど、希望の光のように思えた。なんでもいいから、私の存在を認めてくれるもの、私の愛情を受け止めてくれる対象があるということが、これほど救いになるものとは思わなかった。このときの猫は、なんどか餌付けしているいつものブチの猫だったが、その日は妙に愛想がよく、顔をなでていると、初めて甘噛みをされた。

猫に餌を与えると、猫の率直な食欲と、動物本能により、私の憂鬱の原因となっている邪悪な毒素が、咀嚼され、消化されていくようなカタルシスを覚えた。

それから、スーパーで買ってきた地産の小さなブロッコリーを、塩ゆでして、マヨネーズをかけて食す、思いの外おいしくって、酒を飲んで、つぎに少し高い缶詰の貝を食べて、それもおいしく、酒がなくなったので、自転車でビールを買いにいった。そこで、田中角栄の名言集のようなものを、一冊読んだ。コンビニの同年代の女性店員は愛想がよく、私の同盟者であるかのように、手をしっかり握ってくれた。

安いチルドのピザに、揚げたチキンとチーズをのせて、焼いた。長めに焼いてカリカリになるようにした。それから黒胡椒とタバスコをたくさんかけて、また酒を飲んだ。食欲は十分に回復した。酒をだいぶ飲んでから、FPSのゲームをしたが、成績がよかった。それから、たっぷりと寝た。

朝起きて、久しぶりにヘッセを読んだ。

つまり私たちは、せめてただ一度だけでもすべての価値基準を退けて、あるがままの自分自身を、道徳とか高潔な心とか、すべての美しい外観を考慮せず、無意識が表明するままに、自分のむきだしの衝動と願望、自分の不安と苦痛にとらわれた私たち自身をよく見つめてみるべきである。そしてその地点、このゼロの地点から始めて、私たちは実際の生活にとって価値のあるものの目録をつくり、私たちの実際の生活にとって否定すべきものと肯定すべきもの、善いものと悪いものとを分け、私たち自身に対して命令すべきものと禁止すべきものの表をつくることをふたたび試みなければならない。

私は、昨日の最後に書いたように、ある決意をした。

私は、悪なる存在を悪と認めることにした。

私は、人間にはだれでも心があり、共感できる、という子供じみた考えを捨てた。

それは強いて残酷になることを意味するのではない。ひとつの処世術であり、ひとつの真実である。この世の中には、決して心を通わすことのできない人間がいる。それは、「性格の違い」などで表せるものではない。感情を永遠に持たない、魔性の人間、邪悪の人間が存在する。こうした人間は、もはや、「別の生き物」として対処する必要があるということである。

……以下、かなり過激な文章が2000字程度続いたのだが、あまりに過激であり、また衝撃的であり、自分でも恐ろしくなったため、公開を控えることにする。このブログで、何か表現を控えるということはほとんどないのだが、いつか別の形で公開したいと思う。

2 件のコメント:

  1.  最近の漫画は、「彼岸島」、「テラフォーマーズ」、「ガンツ」、「進撃の巨人」、「東京グール」、「亜人」、「アイアムヒーロー」など、悪としてではなく、生きるため、あるいは自らの本能のために人を殺すことが必要な化け物やパンデミックがテーマの漫画が多いそうで、その理由について考察している人がいました。それによると漫画家さんやその読者は、本能的に時代を予測し、重要なテーマについて描かれている漫画を最も面白いと感じる傾向があるそうです。つまり、これらの内容に共通して起こるのは、惨たらしい死、理不尽な暴力、どうしようもない生への衝動などですが、「生きるため、自分の大切なものを守るために人を殺すことは悪か?」というテーマがこれから数年のうちに一人一人が直面しなければならない現実になるのかもしれないということなのではないか?と分析している人がいるそうです。

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  2. 愛する人が「決して心を通わすことのできない人間」の場合、その向き合い方を最も真剣に考える。

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