3.14.2016

tour d'ivoire

 このように仕事が楽で金が入る生活をしながら、私の人生が不幸に満ちているのは、私が苦痛の探求者であり、豚が特有の嗅覚を持って高価なきのこを探しだすように、私が人生のあらゆる片隅から自分に痛みを与えるものを探し出してくるような性質の持ち主であることを示しているのだろう。ついに幸福を手に入れたと思えば、雨が降ることに悲観し、つぎには雨が止むことに涙するだろう。

 安寧な退屈な生活に溺れてしまいたいと思うときがあり、そうすれば私は直線的な時間概念、すなわち誕生から死滅までの直線、西洋的な「不安の概念」から解放されることができるのに、と思うが、運命がそれを許さないのか、私がそれを望まないのか。

 過去の統括――神経症的な自己とどう折り合いをつけようかと思ったが、この神経症というのは世界認識における歪みのようなものであるらしい。最近わかった。神経症はその社会障害から自己の人生を否定するから、治療しなければならない。しかし神経症の否定は自己の存在の否定でもある。このあたりのジレンマが、神経症をほとんど不治にしている原因かもしれない。つまり神経症である以上社会からは阻害されるけど、神経症を治療すれば今度は自己から阻害されるのである。

 世界認識が歪んでいるとすればそれをどう自覚できるのか、どう改善できるのか。また、神経症ではないひとびとは、歪んでいないのか?私の周囲を見渡す限り、病気でない人間はいない。多かれ少なかれ、神経症であるか、サイコパスである。現代はたまたまサイコパスが覇権を握っているだけだ。

 そもそも神経症は、治療すべきものなのだろうか?社会適合を治療のgoalとするのであれば、社会適合とは絶対的なものなのだろうか。ある個人が正しく、社会が間違っていることなどいくらでもあるだろうに。ひとは社会から逃れて生きていくことはできない。が、人が多様であるように、社会も多様である。日本に生まれたくせに、たまたま日本社会に馴染めないのであれば、欧米に移住でもすればいい。それか、インドネシアやシンガポールのような手もある。

 神経症とは本来こういった放浪、自分を阻害しなくてよい環境を見つけることで治療されるのかもしれない。しかし、それは大多数の人間には困難だろう。そんなことを臨床試験したり比較研究によって証明することは難しい。その点医薬品は患者にも研究者にも楽である。

 しかし神経症者に適切な環境はあるのか。たぶんないだろうと思う。根源的に神経症者はつねに「ここにいてはならない」と思っているはずであり、たぶんその感情は病的なものではなく、人類に普遍的なことなのではないかと私は思っている。

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