3.12.2016

zzzack

今日は土曜日出勤である。

仕事場にいつもノートPCとwifi付きのiPhoneを持っていき、暇なときはそれでネットサーフィンをしている。調べものをしたり、こうして何かを書いたり、アマゾンで商品を探したり中古バイクをチェックしている。

しかし今日はiPhoneの充電を忘れてしまったので大変困ってしまった。暇すぎるのである。もともと田舎へは余暇を過ごすため、隠遁生活を送るためにきたのだが、こうも暇になるとは思わなかった。
部署が変わってからというもの――仕事は楽で、だいたい8時間労働のうち、2,3時間くらいは暇である。この暇をなんとかせねば……と思い、分厚い本を持ち込んだり、PCを持ち込んでいる。ただ本を読むというのもなかなか難しい。それは明確にサボっているように見えるからである(事実サボっているのだが)。

まだ新聞を読んでいる方がましという気がする。新聞であれば、暇でしょうがないから、時間潰しを(否応なく)強いられている、という風に見える。読書というのは、片手間にすることではなく、腰を入れて行わなければならないことだから、さあ暇になった、読書するぞ、という能動的態度が見えてしまう。暇という状況だが、賃金の発生する労働時間であるから、倫理的な観点からもどうかという気がする。
女性社員は、ジャニーズがどうとか話している。彼女たちと話しても不毛だ、と思う。まあ気晴らしにはなるけども、なんだか彼女たちはメディアに騙されているように見える。彼女たちは夢遊病的である。しかし彼女たちから見れば私が夢遊病なのだろう。

この会社に入ってから、この片田舎に移り住んでから、まともに交友のある人はいない。元ホストの上司とは仲が良いが、彼は大阪の出身である。彼は私の1.5倍の給料を貰っている……らしい。田舎の人間とは、やはりそりが合わないのかもしれない。まあ私は孤独に慣れているからその点はいいのだが。

余暇をどう潰すかを考えて、久しぶりにメモ帳に絵を描いてみたら、下手だが、楽しかった。バイクとか、ゲームのマリオを描いてみる。私の書く絵は、基本的に筆圧が強く、しゃちこばっている。線の太さを調節できず、ゴシック体のような絵しかかけない。ようは、洗練されていないのである。

芸術とはつねに作者の人格や思想を表すものだと思うが、画だけでなく、私の音楽についても、私のこうした筆記についても、同様に私は力が入りすぎているようで、洗練されない。私の生み出すあらゆるものは、なんだか人を気疲れさせるようである。

私自身、創出のときに楽しんでいないからかもしれない。水ぶくれに針を刺すようなカタルシスはあるが、決して楽しいわけではない。ペソアが言っていたように、「嫌でたまらないがしてしまうこと」に近い。だから禁欲者にとっての自慰のような、決まりの悪さがつねに付きまとう。

朗らかな、軽快なものこそ一般大衆の求めるものである。音楽でも、テクニックが優れていればそれで優れた音楽とされる。いわゆる「ヘタウマ」のような音楽家はいるが、こういう人間は偶然の幸運か、根回しなどして権威づけられれば大衆に認められるだろうけど、それができなければただの不能者である。

実情は、「私のために用意されたもの」が求められるのであり、「だれかの自慰的創出」など、現実にはだれも求めていない。そういうことから、私は芸術家として生きていくことをなかば諦めている。私は自慰的な創出しかできないからである。

魯迅は、他国にいいようにされるがままだった中国(清)をなんとかしようと、筆をとった。そういう明確な理由があれば、意志や闘志のようなものがあれば、それにこしたことはないだろう。私は生きることにおいてまったくobscureな物の見方しかできない。いわばそこに向かうべきかどうかつねに迷っているのである。

だから、私は何も達成できないだろうと思う。私は何ら功績をあげることはないし、賞だのなんだのとは無縁だと思う。いわば少し風変わりなだけの凡人として、死んでいくのだろうと思うが、最近はそのことを半ば受容できるようになっている。

今日は天気がよいので、ゴミ出しをして、バイクで海沿いを走ろうと思う。大したことのない日常である。ただこれだけ書いたので、少し時間潰しになった。

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