4.18.2016

攻撃

特に悪くない日々を送っている。18時に帰れて、仕事中に読書ができ、給料は悪くない。くだらない労働賛美のはびこる日本において、なかなか、このような生活ができるものではないだろう。

もちろん、私は代償を払ってこの生活をしている。ひとつには、都会の華々しい生活からは離れてしまっている。またもうひとつは、職場の人間から、ときに敵意を持った目で見られるということである。一時期は拒絶反応のピークとも見られるような苛烈な攻撃にあった。私はだいぶ苦しんだけど、しかし彼らの攻撃は長続きしなかった。

人間、どんなことにも慣れるものだ。私はどんなコミュニティにおいても、真っ先に攻撃される性質を持っているらしい。疑念と敵意なしに集団に受け入れられたことがない。しだいに、「この人はこうで、それは変えようがないのだ」とひとが知るとき、私は初めて落ち着いて生活を送ることができるようになる。ようは私は「レア」なのだと思う。別の表現だと、奇異なのである。

そんなわけで、一時的な攻撃反応を乗り越えて、いまは落ち着いて読書をしている。

ローレンツの「攻撃」がなかなか読みやすく、内容もおもしろい。さまざまな動物を観察研究し、また人間の心理も知ろうとする「行動科学」の本である。私はこの行動科学を嫌っており、芸術における抽象主義のような一時的なムーヴメントだと見なしていた。それはつまり白衣を着てラットを観察することで人間の心理を解読しようとする試みにいささかナンセンスを感じていたということである。

ただローレンツのこの書籍にはそういう冷たさはなくむしろ底知れない寛容さのようなものが見られる。私はこの本を通じて動物と人間は切り離せないものであることを知った。というのも、たとえば彼らの同種に対する攻撃様式などを見ていると、実に「人間くさい」のである。

私がよく猫のいる公園に行くと、つねに何かしらの猫と出会うのだが、見知った猫がいるときには他の猫はいないし、逆に知らない猫がいるときには、いつもの猫がいない、ということがあった。猫の多い公園なのだが、すべての猫に同時に出会うということはなかったのである。

この事実はローレンツによって指摘されていた。つまり、猫はシフト制を採用していたのである。猫がその"エサ場"に現れ、臭いをつける。すると、他の猫は少なくとも数時間は近寄らないようになる。――猫にとっては、臭いから時間の情報も解読できるらしい。この適度な分担制によって、私の眼前にはつねに一~二匹の猫しか現れないというわけである。また一匹の猫が場を支配して肥え太り、他の下位の猫が餓死するということもない。

ローレンツによれば「攻撃」とは種の繁栄をもたらす必要のためにあるらしい。それは「悪」「野蛮」なのではなく、人間でも同じことなのだが、「共栄」のために必要なシステムなのである。

このブログを読んでいる人は、うんざりするかもしれないが、私は現在サイコパスを調べようと思っている。その観点では、すこし残念な書籍だった。サイコパスの攻撃とは、「反応的攻撃」の他に「道具的攻撃」がある。反応的攻撃は、すべての哺乳類に見られる。また他の種の動物にも見られるだろう。例えば遠方に敵を見つけたら逃げるところが、近づきすぎて逃走困難だと動物が感じると、とたんに攻撃を始めるというような、動物においても人間においても頻繁に見られる行動である。しかし、他者を使役し、利潤をむさぼるような道具的攻撃についてはサイコパスにしか見られないとされている。この攻撃の区別がなかったのが、残念だった。

私が興味を持っているのは、動物にもサイコパスに類似した特質を持つ個体が存在するのかということ。サイコパスが「種の繁栄」に貢献しうるのかということ。サイコパスが、文化や宗教、哲学にどのような影響を与えてきたのか、ということである。これらについてあまり良い本がないのが、悩ましいところである。

0 件のコメント:

コメントを投稿