4.19.2016

日本のおしまい

今日は少し激していた。つまり怒っていたのである。

私の職場の上司が、あと数ヶ月で辞めてしまうらしい。上司は、元ホストだった。正確には、京都の大学に通っているあいだ、ホストで稼いでいた。だれからも信頼される、優れた人物であった。おそらく私が「他者を気にかける」とか、「同情する」という感情を初めて持った対象が彼であった。いわば、そういった感情が彼によって育まれたと言ってもいいのである。

よほどのことがない限り、他者を信用せず、疎む、敵対する、という私だけど、彼はその意味で例外であった。彼は経営者サイドと対立し、いじめのような境遇におかれ、必然的に辞める段取りとなった。

まあ私も長居しようと思う職場ではないし、彼が辞めてしばらくしたら私も辞めようと思う。この職場で勉強になったのは、サイコパスという存在を知ることができたこと、日本の支配構造を知ることができたこと。この世にまともな職場とは希有であること。日本国民はよく調教された奴隷であること。善良な人間は、つぶされるということ。

やはり海外に基盤をおかないと、と思った。この国は、もうだめだろう。抽象的な表現だが、だめなんである。私は、経済も政治も詳しく知らない。しかし、元ホストが辞めるという話を聞いて、もうこの国はおしまいだと悟った。これは、幼稚な飛躍ととらえられてもしょうがないと思うが……。

この国では、ひとびとは夢遊病のようにぼんやりしている。彼らが歩くたびに、少しずつ富を奪われているのだが、それを気にかけることもしない。彼らは、ときにつまづいて大泣きしている。「俺の人生は、なぜこうなんだ」。しかし、彼の目には、富を奪う手は見えない。ゆえに、彼らにできることと言えば、より思考を鈍磨させ、「ぼんやり」するか、首をくくるかしかないのである。

支配―隷従という構造は、諸外国でも同じなのだろうか?ほとんど日本人の半分しか働かないフランス人も、「俺は奴隷のようにこき使われている」と感じるのだろうか?それとも、この支配―隷従のイデオロギーは、日本特有のものなのだろうか?いや、日本固有と言っては語弊がある。伝統的な日本人は、明治時代に「勤勉な日本人」に作り替えられたからだ。だから、無味乾燥の、醜悪な、矮小な、不幸な、非情な、哀れな――「服従する」生き物としての日本人は、「現近代日本人」としてかっこにくくらなければならないだろう。

とにかく!私は激している。うすらバカな奴隷にも、狡猾な主人にも怒っている。

だが、私は少しだけ冷静で分別があるので、「階級闘争」に走ることはしない。すくなくとも次のような疑念を捨てることができないでいる。「これこそが」、人間の統治の自然な姿ではないのか?

私は神経症だから、日本の社会がいかに歪んでいるか、いかに「不自然に」歪められているか、ということがわかるのである。なぜというに、この「安定した」日本社会の代償として、私のような神経症者が誕生するからである。

「自然に還れ!」――とルソーは言っていないのだが、しかしこの主張はもっともらしく感じる。私は、文明社会に疲れた。文明とはそもそもが苦しみである。苦しみの発明、これは文明と道義ではないのか。


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