4.21.2016

悪の病

昨日私は少々興奮した文章を書いたけど、実際興奮していたし、多いに泣いた。昨日も書いたが、私は、自己がかわいそうで泣くということは何度かあったけど、他者のために泣くということは初めての経験であった。おかげで、また目がぱんぱんに腫れた状態で出社せねばならなかった。

今回は、周りの人間は私のあからさまな目の異常に触れてこなかった。前に、サイコパス上司の下に配属されたときも、同じくらい泣いたのだが、そのときは、周りがそれを指摘するので、「花粉で目をかいて、炎症を起こしている」と説明するだけでよかった。今日は、状況が知れ渡っているため、私は不器用な弁解をする必要がなかった。いつもそうなのだが、男が目を腫らすほど泣くという状況は、少し恥ずかしい。

私は自分が悪に苦しめられるということも、他人が悪に潰されてしまうことを見るのも、大変につらいということを悟った。私は、悪に敏感なのだと思った。実際のところ、私の半生を振り返ると、とくべつ不幸な境遇にあるのではなかった。私は悪を感じ取りやすいから、人以上に苦労するのだ。みんな、「こんなものだ」と折り合いをつける。上司が過労で鬱病になった。それがなに?というわけだ。「それは私の問題ではない」。「よくあること」。

ところが私の目にはこの「悪」の構造が全人類、全歴史に渡って拡張、というか一般化できるような気がしている。悪が他者を支配する。他者を道具化する。他者を破壊する。

ふつうの人間には、葉っぱか、せいぜい枝しか見えない。私はといえば、いささかの知識欲があったから、幹を見、根を見、一本の木を、森を、見ようと、少なくとも「試みた」ことによって、ふつうの人間が感じないようなことを、感じとることができているような気がする。

それは未分化の領域の智慧と言ってもいいかもしれない。本を読んでも、内容はすぐ忘れてしまうが、あんがい無意識領域の棚のなかには収まっているらしい。私の読書選択は、食欲と同じく飢えによってもたらされた。ゆえに、その動機は苦痛であり渇望であったのだが、それが良い結果をもたらしたと言えるだろう。

私は、人間一般に対する同情の念を隠しきれない。私は、ほとんどの人間に悪は存在しないと考えている。悪は、少数の異常者にしか存在しない。少数が、悪の病をもたらしている。私はこのように考える。

ホスト上司は、しっかりと療養し、精神の健康を取り戻してくれるよう、それだけを願っている。私の前には、もう姿をあらわすことはないだろうが。

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