4.22.2016

会社を辞めることにした。

夜中二時、胃部の疝痛により目覚める。制酸剤を飲むが治らない。眠気もあまりないので、そのまま起きていることにした。

私は来週くらいに仕事を辞めてみようと思う。私は職場の人間が好きだし、仕事も慣れてきて嫌いではないのだが、やはりホスト上司の件が辛く、また業務も多忙を極め、なにより情動障害の経営者に富を与えるために生活を捧げることは、これは悪への荷担であると自覚した。

退職が初めてなのでいろいろ手続きがいるのかと思ったが、ようはこれだけである。「退職二週間前に退職届を出す」。あとは会社から借りてるものを返すくらいか。入社時の契約では「退職届は三ヶ月前に提出すること」とあるが、こんな約束に法的効力はないようだ。

二週間というのは届けた当日は含まないらしい。ただ折良く連休が近いので、退職届を提出し、あとは有給を申請して、ほとんど即日で退職しようと思う。慣習においてどのように評価されるかは知らないが、これは法的手続きとして非の打ち所のない行為であり、非難されるいわれはない。

ただ日本の法律は、さすがに「バックレ」は認めていないようだ。この「二週間」を破った場合は、賠償責任が生じるとある。私は労働契約違反の会社であれば即日退職が許されるだろうと考えていたのだが、これは契約して短期間の間でなければならないらしい。つまり私のように一年と少し働いた場合は、半ば「合意」していると見なされるようである。

しかし退職した労働者への経営者の損害賠償請求訴訟は、たいてい負けるものらしい。こういう労使が揉めるような会社は、使用者側に問題があることの方が多いようだ。ある企業が労働者へ損害賠償の訴訟を起こしたら、逆に企業側に未払いの残業代を支払うよう命じられたという判決があって、笑ってしまった。

実際のところ、胃が悲鳴をあげているのだし、私は自分の胃に比べたら、会社が潰れようがまったく気にならない。世の中の会社員は、ほとんど消耗し洗脳されているから、死ぬまで働いたり、抗うつ剤を飲んだり、重病で倒れてしまうらしい。

私は日本の会社員と奴隷の区別がどうもつかないでいる。皮肉ではなくわからない。しかし古代ギリシャにあっては奴隷の価格は現代でいうと高級車くらいの値段がするようなので、趣味人が高級車を適切に管理し、ぴかぴかに磨き上げるように、現代の奴隷たちがされるような粗末な扱いをすることはないだろう。

つまりブラック企業に勤める日本人は「奴隷以下」なのであり、古代から社会に広く容認されてきた奴隷制と同一視するのは誤りと言えるだろう。日本人は下層民のなかの下層民である。古代の奴隷がいまの日本人を見たら、その悲惨な生活に驚愕するのではないかと思われる。現近代の戦争捕虜や、かつてのアメリカの黒人奴隷と、日本人の「社畜」の生活のどちらが豊かかと考えると、首をかしげてしまう。そのようなレベルだ。少なく見積もっても、刑務所にいる受刑者よりは貧しい生活をしているだろう。

これが日本という自称先進国の実態である。おそらく山手線内の「勝ち組」には見えてこない世界だろう。ある国が衰退するというとき、地方の弱者たちから切り捨てられる。逆に言えば、対応が早いのは弱者や田舎者ということである。この国の勝ち組たちは、ゆでがえるのように気づかないまま死んでしまうのかもしれない。

仕事を辞めてしまおうと考えるとずいぶん気が楽になる。バイクに乗りたい。山々の空気を吸いたい。畳の上に寝転がりたい。本を読みたい。なにより、旅に出たいと思っている。こんなバカげた国とはさっさとおさらばしたいものだ。

報道の自由度が、72位になったようだ。日本のマスコミと官報の違いが、私にはわからない。

最近、いろんなことが同一して見えてきて困っている。つまり、悪=サイコパスととらえたり、マスメディア=官報ととらえたり、一般日本人=奴隷と解釈するような、構造の単純化、「垣根の撤去」といった行為が、私の頭の中で起こっている。

実際のところ、本当の智慧というものは、アリストテレス趣味のように細分化し事細かに定義することではなく、反対に垣根を外していくこと、概念を統合することのような気がしてならない。その結果、最終的にはひとつの真円に向かっていくのではないかと思う。

こういうと宗教じみているが、結局は「あまねく存在する神」というものがあるのであり、それは自己の外側にあるのではなく(自他の垣根もとりはらったなら当然だが)、自己が神であり、また世界が神であるということになるのではないかと思う。「汝はそれなり」というわけだ。

話が世界認識まで飛んだが、私が実際に退職届を出せるのかがわからない。ホスト上司が退職してから、信じられないくらい忙しいからだ。「今辞められては困る」と当然言ってくるだろう。ほとんど恫喝のようなことをされることも覚悟している。私は口べただから、自分の主張をうまく通せるかが不安である。情動障害のサイコパスは、口達者なのである。

もう、メールで一方的に退職を通知し、あとは逃亡してしまえばいいという気がしている。これも、別段違法ではない。

世の中、違法ではないことばかりだ。もろもろの害悪も取り込んだにせよ、この「法律」というのは良いものだと思う。少なくとも、「権利意識」のある人間は、法律が守ってくれるようだ。「空気」に縛られるひとびとは、一生を台無しにされ、だれかの道具として生きるしかないということだろう。


仕事で労働者が鬱病になることはこの国では茶飯事だが、つねに問われ、記述されるのは「労働者」側である。つまり、「鬱病になる労働者は、まじめで責任感が強い」というような記述である。私はこういった社会通念に疑念を抱く。「人間が自死を試みる」という異常な行動は、けっして普通の人々の行うことではないからである。つまり会社における労働者の自殺の原因は、少なくとも労働者間・労使間の「あいだ」の異常、そして多くの場合、「使用者」の異常と考えるのが妥当だと思われる。

そこで私はサイコパスについて調べてるというわけだ。ある精神科医曰く、サイコパスは「人を鬱に陥れる達人」ということだ。鬱病の人間が「鬱になる達人」ということはないだろう。遺伝的に鬱病になりやすいひとはいるにせよ。

鬱病になる遠因近因には、この「サイコパス」の陰があると私は考える。サイコパスによる「加害」の罪は、実際のところ問われることがないのが実情である。たとえば先のホスト上司は、サイコパスによる精神攻撃、具体的には強制的な過重労働によって「入院(たぶん希死念慮による強制入院)」という事態に陥ったのだが、サイコパス自身は自分が悪いと寸分も感じていないし(感じたらサイコパスではないが)、また周囲の人間も、サイコパスを糾弾しようとは思わない。

それほど、サイコパスによる攻撃は通常の人間にとっては「見えない」ものなのであり、また「見ようとしない」「目隠しされている」のかもしれない。われわれの世の中を支配する「常識」とか、「空気」と言ったものを、疑ってみなければならない。再度述べるのだが、自殺、あるいは鬱病は、ほとんどある特定の人間に原因が求められるのである。

このサイコパスの「加害」が黙認あるいは無視されていることは、まことに不思議なことである。そうだから私は、サイコパスと歴史や文化、芸術や宗教などとの関係を広く捉えていきたいと考えている。


2 件のコメント:

  1. サイコパスってなんだか過度に「社会化」されてませんか?表の面――つまり公の事物についての適応度が高いような気がします。まるで、手許にある道具をつかうように、抽象的な概念、たとえば人間関係なんかをいぢくって、操作するような。彼らは世界を構成する意味連関が、土台から我々と異なっているようです。まるで、同じ母語を話す、まったく遠い国から来た人間のように、ものごとの価値基準と意味が一般とズレているんでしょう。

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  2. 旅のブログを楽しみにしています。
    ふと、坂口恭平さんと共感し合えるのではないかと思いました。コントロールし難い躁鬱を抱えながらも感受性と知識、才能を活かして、愛をもって社会に革命を起そうとしている点において。愛があり情が深い革命家が日本には必要だと思います。チェ・ゲバラのような。 s.k

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