4.13.2016

サイコパスと悪

私にはよくわからないのだが、人間に同情心があるとすれば、その人は悪にはならないと思う。同情心のある人間と、同情心のある人間との関係において、不幸になるとすれば、その不幸の原因となる悪は、どこにあるのか?それはその「あいだ」にある複合的要因なのか?それとも外部から、個々人の心に悪が植え付けられているのか……。

私は、善人、悪人という区分は、同情心の有無ということで片付けられると最近考えている。その意味は、ほとんど一般人とサイコパスの区分と道義である。これはいささか単純に過ぎると人は言うかもしれない。私もこの単純な構造に驚いている。善悪とは、こうも単純でよいのかと。

殺人犯が無罪ということはありえない。だから、人々は彼らの罪を認めている。でも、私には死刑に値する殺人者と、釈放すべき殺人者が区別できる。一方は、どのような環境によっても悪を振りまく人間であり、一方は環境や社会的状況が彼の良心を奪ったと考えることができるからである。私自身、ある環境に置かれたら人を殺すこともあるだろうと考える。そのような推察ができない人間は、未熟である。

サイコパスをまだ調べているのだけど、今日たまたま見たブログで、ギリシャ神話の「ゼウス」とはサイコパス的ではないのかという記述があった。
ゼウスも「全く反省しない。自分は生まれた時に被害を受けたという事を根に持っている。自分の事しか考えない。女性が心底嫌がっているのに追いかけて行ってしまうという節制の無さ。直ぐにキレて残虐な事をしても「それが良い事だ」と思い込む」という性格です。
もしかしたら、サイコパスは数千年も以前から「非常に迷惑だが、凄い。しかし、絶対に近寄らない方が良いので、神様にでもしておいた方が良いよ」という人が居たのかな?と思いました。(優しいだけじゃ生きていけない
この記述はニーチェのギリシャ人の記述といくらか通底する。
――「どうしてこんな狂おしいことが可能であったのか。どうしてそんなことがわれわれほどの頭のなかに生じてしまったのか。われわれ高貴な血筋の人間、幸福な人間、健康な肉体を持ち、高い水準に位置する、有徳な人間の頭のなかに」――数世紀にもわたってあの高貴なギリシア人は、自分たちの仲間の一人が犯してしまった悪行、どうしても合点の行かぬ悪行に直面するたびにこう自問したのであった。そして最後には、頭を振りつつ次のように答えたのである――「きっとある一柱の神が、あの男の気をふれさせたに違いない」……。こういう遁辞は、ギリシア人のあいだでは典型的なものである……。以上のような次第で、当時の神々は人間を正当化するために、つまりたとえ凶事においてさえもある程度まで人間を正当化するために役立ったのだ。神々は、悪の原因に解釈を与えるために役立ったのである。――すなわち当時の神々は罰を下すという任務を引き受けるのではなく、むしろより高貴なものを、つまり過ちを自分の身に引き受けたのである。(ドゥルーズ「ニーチェ」より孫引き)
すなわち古来、神とはそのような「縁遠い」「不可解な」生き物であった。人間と神は違う生き物である。現代では、サイコパスは「爬虫類人」などの暗喩として記述されることがあるが、爬虫類のような下等生物にせよ、神にせよ、人間からの距離性では同等である。すなわち「彼らは私と同じような生き物ではない」という認識が、古代においては一般的だったのであり、現代では陰謀論のようないささか滑稽な形でしか現出していないのである。

このサイコパスと一般的な人間との垣根を溶融させたのが「平等」の概念であると私は考える。つまり、どんな悪人であっても人権を有するということ――これは良いとしても、「人心」を有するということ、これを認めてはならないということに、人類はほとんど気づいていないのである。

私は会社において、サイコパスに苦しむ人々を見た。また私もサイコパスに苦しめられた。ところで、私が苦しむときには、つねにサイコパスの陰が見えた。いまは、部署からサイコパスが消えている。そのために、空気は朗らかになり、緊張がなくなり、あたたかみが戻った。私は、サイコパスを憎むことはできても、同情心を持った人を憎むことができない。彼らが苦しむとき、私も苦しく思う。でも、同情心を持った人が苦しむとき、その苦しみはつねに「不当」であり、強制されたものである。私はその苦しみの根源を探ろうと思っている。サイコパスが、その一端であるが、もう少し掘り下げてみたい。

1 件のコメント:

  1. 同情心のある人間からして同情心のない人間は悪である。
    それは「悪」は同情心のある人間の中に存在している証拠なのではないのか。

    返信削除