4.24.2016

外か内か

関心が大してわかないので、本を読む気にならなかった。今読みたいのは、「まなざしに管理される職場」というどこかの大学講師の書いた本なのだけど、まだ届かない。たぶんフーコーに絡めて日本社会を分析するような本だと思うので期待している。ローレンツの「攻撃」とか、アンソニー・ストーの「人間の攻撃心」は読みかけだが、どうも肉薄していないというか、私が今求めるものではないと思っている。

その代わりに映画を見ていた。「セッション」というジャズ・ドラマーの映画である。とてもおもしろかった。ただ、ドラムを死ぬほど練習したところであんなに出血はしないだろう……。



明日、明後日をめどに、私は会社を辞めようと思う。突然、さっといなくなる。これでいいのだと思う。会社が、どうなろうと、私は自分の胃の粘膜の方が大事である。会社が、ひとつ潰れたところでだれも悲しまないだろう。

ホスト上司は、ほんとうに自殺未遂をしでかしたらしい。彼は何に殺されかけたのか。もちろん、過酷な労働を強いた会社は悪いだろう。しかしもっともひどいのは、社会における不寛容である。私も、不寛容だったかもしれない。ただ、私自身、毎日苦悩しているのだから、他人のことまで構っていられない、というのが現実である。

さて不寛容はどこからくるのか。彼のような人間は「何に」殺されているのか?端的に言えば、「悪」と言うことができるだろう。我々の心に、悪は根ざしているのだろうか。それとも、勝手に投げつけられた悪に、人々は戸惑い、苦しむのか。悪は外にあるのか。内部にあるのか。悪は自然か、非自然か。必然なのか。

悪が古代から存在したのは事実である。それでは、古代以前には存在したのか。動物にも悪はあるのか。動物の罪を問うことはできるのか。われわれは、動物を嫌悪することはできない。軽蔑もできない。反対に、動物に十全に満ちている肯定感を、どうして得られないのか、と嘆いている。

われわれの種は、なぜこんなにも苦しむのか。われわれが苦しむのは、われわれの責任なのか。外なのか、内なのか。われわれは、だれに責任を問えばよいのか。悪の流出源を、突き詰めることができるのか。悪の放逐とは、たいへん困難である。大半のひとびとは、目が開いていないからである。悪と、悪に使役される人間と、そうではない人がある。それは、ただ悪に対するところの人間である。

悪を認めること。しかし、次には、悪を克服しなければならない。知は悪を見つけ出す助けはしてくれるが、そこから先には連れていってくれない。



私の左手に落ちた涙を、私の右手が愛撫した。

1 件のコメント:

  1. 自己防衛で会社を辞める判断は正しいと思う。会社なんてどうだっていい。やはり、自分の身は自分で守らなければ。

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