4.25.2016

ベーコンサラダ

情緒が安定しないのだがこれはもちろん仕事が嫌だからである。それで、仕事を辞めるのも嫌なのである。それは経営者側の罵倒や叱責が容易に想像できるからである。

自殺に追い込められたホスト上司は、もともと退職する予定だった。その相談のときは、ボイスレコーダーを持参していたらしい。そのことを、経営者は「信じられない」と言っていたが、私からすれば経営者側が信じられないのである。

岩田宗之というSEのコラムを読んでいたら、「国民を不幸にするようなロクでもない国ならなくなった方がマシ。私たちが幸せなら、日本なんてどうなったっていい。それなのに、私たちの幸せより日本の存続の方を大事だと言うから、間違っているのです。」とあって、溜飲が下がる思いがする(「自由を否定する人たち」)。

岩田という人物は、ほんとうに間違っていることを言わないので、感心してしまう。中学生~高校生あたりからこのサイトを見ているから、たぶん10年以上岩田氏の発言を追っているわけだけれども、まったくぶれない。私がこころから信用できる人間のひとりである。

組織とは、構成員を幸福にするものでなければ、存在する必要はない。これはルソーも言っていたことだと思う。国民を幸福にできなければ国はない方が良い。社員を幸福にできなければ会社なんてなくていい。ましてや、自殺に追い込むなど、信じられない所業である。それで経営者側は、そのホスト上司をさんざん馬鹿にしている。「あいつは最低の奴だ」と笑っている。

こんな人間が、存在するのである。

ただ私は経営者はサイコパスだと知っていたから、もう「我々と同じような人間」とは見ていない。サイコパスの存在を知らない人は、こういう人物にまんまと嵌められてしまうのだろう。ホスト上司も頭の良い人間だったから、見切りをつけていたと思うが。過労と、それによる仕事のミス(かなり大きな)で、彼は限界だったのだろう。

疲労も極度になると、考えることができなくなる。そうなる前に、手を打たねばならない。自分を殺すか、世界を殺すか――というように、すべてをおしまいにしたくなる前に、逃げなければならない。距離を取らなければならない。

私はサイコパスに人権を認めない。法律さえなければ、私的感情によって殺害していると思う。そうして、それは豚や牛を殺すよりも気軽である。

四つ足を殺すことは私にはできない。情が移るからである。せいぜい、鳥を絞めることができるくらいだろう。しかし、サイコパスは食用としては不適にせよ、世の中に害悪を振りまき、善良な人間を破滅に追い込む存在であるから、私は慈悲など一切なく殺せると思う。そういう自信がある。ただ、この国はいちおう法治国家であり、殺人は重罪であるから、自分の身を守るためにそれはしない。

「人権」などという思想が輸入される前、「悪人は殺してよい」という自然で健全な時代であれば、サイコパスのような人間は淘汰されていただろうと思う。そう考えると、西洋の平等主義というのは、少し誤謬がある。殺されるべき人間はいるのだし、差別されるべき人間はいるのだし、殺さないまでも、奴隷化するなどして行動を制限すべき種類の人間はたしかに存在する。

世の中はきれいごとだけではない。literallyに善意の欠片もない人間が存在するのであり、こうした人間を過度に保護する現代社会は、悪をのさばらせ、善が駆逐されている。

ヒンドゥー教においては、悪がはびこる社会になると、ヴィシュヌ神が人間の姿をとり、悪を葬り去るのだという。何かで読んだと思うが、たしかそんな逸話があったと思う。しかし、梵我一如の発想を考えてみると、このヴィシュヌ神はそもわれわれ自身だということができるかもしれない。われわれがすでにして、神であり、われわれがすでにして、神聖であるならば、それはギーターの奥義にあるように、「欲するままになせ」という教えを守るだけで良いのかもしれない。そのように、悪は駆逐されていくのかもしれない。

私は、「人間の姿をした神」なのかもしれない。もちろんあなたもそうかもしれない。これは、おもしろい考え方だと思う。少なくとも、サイコパス経営者は神ではない、と言う気がする。でも、ギーターによれば神はあまねく満たされているということだから、あれも結局は神なのか。へえ。しかし永遠に自己の神聖に気づくことはないだろう。

ワタミの社長にせよ、今の首相にせよ、ああいう存在は、まったく卑しい低次の存在である。だから、時代が違えば、殺されていたり、自由のない奴隷として扱われていただろうと思う。もちろん、現代においても、適正な感覚が保たれている国家であれば、過労死させるような企業は「異常」として認識される。やはり、この国が異常というだけなのだろう。いつから異常になったのか?と考えると、しつこいようだが明治政府の悪政が見て取れる。日本人が「勤勉」になった原因は明治政府だからである。



今日はwikipediaで食肉の歴史について調べていた。

古来から食肉は、日本において忌み嫌われていた。もちろん生存の危機に見舞われれば食肉もしただろうが、基本的には菜食、魚食が中心であった。秀吉も、「牛馬を売り買い殺し、食う事、これまた曲事たるべきの事」とポルトガル人の宣教師に言っていたらしい。これに対し、ポルトガル人は「いや、牛は食べるけど馬は食わないよ」とくだらない弁明をしている。

上流階級が肉を食わないのは当然だったようだ。町民が四つ足を食うこともあっただろうが、それはたまの贅沢というか、無邪気な好奇心というか、そんな程度のことだと思う。中学生が煙草を吸いたがるようなものだ。禁制はだれでも犯したいものである。ただ、今の日本人と同じように、肉を常食するということはまず明治以前には考えられなかったことだろう。

このような日本人だったが、明治政府が「肉食えよ」とアピールしてきたがために、ころっと騙されてしまった。
明治新政府は発足当初から肉食奨励のキャンペーンを大々的に展開した。明治2年(1869)に築地に半官半民の食品会社「牛馬会社」を設立し畜肉の販売を開始した[29]。翌、明治3年(1870)には福沢諭吉が執筆したパンフレット『肉食之説』[30]を刊行、配布している[31]。 斎藤月岑日記には「近頃のはやりもの」として牛肉、豚肉などが挙げられている。食肉業者が増えたことにより、1871年(明治4年)には「屠場は人家懸隔の地に設くべし」との大蔵省達が出されている[1]。同年には天長節翌日の外国人を招いた晩餐会で、西洋料理を出している[9]。ただし明治天皇が初めて牛肉を食したのは1872年(明治5年)である[1]
……また福沢諭吉が出てきた。私はこの人、国賊だと思う。 調べたら怪しい論文でメーソンリーとの関係が指摘されている。この手の情報は信用してないけど、実際金と権力につられてうまく利用されている感の強い人物である。

明治天皇が食肉したことの衝撃は当時は大きかったと思われる。なにせ天皇は何世紀も肉食していなかった。天武天皇より食肉を禁じ、少なくとも牛食は完全否定。おもしろかったのは以下の記述。
(明治5年)2月18日、御岳行者10名が皇居に乱入し、そのうちの4名が射殺、1名が重傷、5名が逮捕される事件が発生し、後に「外国人が来て以来、日本人が肉食し穢れて神の居場所が無くなった為、外国人を追い払うためにやったのだ」との動機が供述されている。
すごい事件だ。 なんとなく 御嶽行者の言わんとしていることはわかる。



私も最近は食肉を控えている。魚介類はさかんに食すが、哺乳類の肉は食べなくなった。この前、知人と食事に行く機会があったが、サラダに乗ったベーコンを丁寧にとりのぞいたので、怪訝な目で見られた。しかし私も自分の行為がほとんど無意識的に行われたので自分でも驚いた。

もう私の目には食べ物ではなくなっているようだ。でも、スーパーへ行くと、つい焼き鳥などを買ってしまいたくなる。たまの焼き鳥くらいは自分に許すべきか。牛、豚はもはや無理だが。

食肉を控えて二週間は経つがとくに禁断症状はない。食べたいとは思わないし、体調は当然予想されることだが、食肉していたときより良くなっている。もともとほとんど自炊生活だから、食事選びに困るということもない。

そも、肉っておいしかっただろうか?と考えると微妙な気分になる。牛肉、豚肉は20年間以上食べてきて、そんなに好きではなかったと思う。身体の調子も悪くなるし。

しかし、やっぱり、鶏肉はおいしい。からあげ、焼き鳥、チキンクリスピーは私の好みである。やっぱり鶏肉は許すべきか。西洋のベジタリアンは卵を食うことが多いが、卵を食って鶏肉を食わない道理は謎である。私の現在の食習慣は、ペスコ・ベジタリアン(魚食するベジタリアン)と分類されるらしいが、鶏食もするとなるともはやベジタリアンではなさそうだ。

まあ、食べたくなれば食べるというスタンスで良いのだと思う。西洋のベジタリアンはやや強迫的に見える。それだけ西洋圏は肉食文化が根強いということだろう。鶏肉が食べたくなったらそれは自分に許して良いだろう。ようは明治政府の強要した以前の自然な食習慣に戻れれば、よい。動物に対する憐憫の心があればよい。鶏肉はともかく、もう豚や牛は食べられる気がしない。



さておもしろいことに、日本人が「勤勉」に作り上げられた時期と、「肉食する国民」に作り上げられた時期は、ほとんど重なるようである。富国強兵イデオロギーの一環ということである。明治時代で日本人は改変された。日本の歴史において明治維新から現代に続く150年は日本人にとって異常事態である。その異常を異常とも認識していないのがほとんどの日本人だ。

この事情がわかっていれば、善良な人間がなぜ死に追いやられるのか、なぜ悪がはびこるのか、ということも説明がつく。日本には病気が巣くっているのであり、日本人は不自然に作り替えられているのであり、不当に苦しめられているのである。

私の考えが正しいかはわからないが、私はサラダの上のベーコンを除くように、至極自然に、上のように考えている。

3 件のコメント:

  1. 殺したくなるほどの憎しみは理解できる。しかし、「殺すべき人間」や「差別されるべき人間」なんて、果たして存在するのだろうか?一人でも反対派がいる限り、それは「すべき」ではなくなる。全ての角度から同じように見える人間なんて、いないだろう。

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    1. 同意します。s.k

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  2.  死は、誰しも平等に訪れるが、弱い人間は死に方も選べない。愛する人に囲まれて涙を流して死を惜しまれるような死に方をするのか。全てに絶望し、誰にもかえりみられることなくのたれ死ぬのか?
     多くの場合人は、どのように生きるべきかと考えて行動するが、悪人や下劣な人間の行動原理は、人の情というものから逸脱している。しかし、その様な欲に溺れ、他者を食い物にする人間が全く情愛を持っていないかというとそうでもなく、芥川龍之介の「蜘蛛の糸」のカンダタのように気まぐれな優しさを示したりもする。とかく人の世は生きにくい。

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