4.23.2016

救済

月曜日を私は恐れている。

非人間的な労働、人権もなにもない、非人道的な、奴隷的な、強圧的、ハラスメント、精神攻撃的な、冷酷、重圧、退廃、暗い、冷たい、仕事をまたしなければならないと思うと、ワインを一本あけてしまっても、あては塩だけでもいいから、酒を流し込まなければやっていけない。

この夜が、解体し、この空が、落ちてきて、みな、血と臓物を吐き出して死んでしまえばよい。眼球を飛び出させ、舌をだらしなく垂らし、皮膚の大きな切り口から、もう用のない血液と、みじめな脂肪の粒を垂らしながら、死ねばよい。死ねばよいのだ。

馬鹿げた社会である。私は、社会というものが、こんなに不当で、未熟であり、修正不可能なものであるとは思わなかった。個人は、それにあらがいようがない。個人の意志など、この社会では存続しようがない。我々が、どう生きようと勝手だ――と我々は、思っている。しかし、それは不可能だ。

民主主義イデオロギーは、日本のインテリが待ち望んでいる。彼らは、日本が発展途上国の独裁国家のようであることを、耐えがたい羞恥だと感じている。しかし、当の民主主義国であるフランスなどは、やはりインテリに限ってのことだが、民主主義に憎悪を向けている。

これはどういうことか?私は民主主義イデオロギーが、日本に適応されれば、少しはましになるだろうと思っている。このような、絶望的な気分で月曜日を呪う必要もなくなるだろうからだ。しかし、日本と対極にあるフランスの知識層は、民主主義イデオロギーを呪っている。

われわれは、支配的なイデオロギーに対しては、つねに反抗を向けるということだろうか。すなわち、場の支配。監視。権力。これらを、取り払いたいという原初的な感覚が、われわれの本能・無意識的なレベルで、持続的な効力を持っているのかもしれない。

そのような視点を持つと、強硬的な右翼だろうと、協調的な左翼だろうと、同じ方向を向いていることがわかる。われわれは、なによりも解放されたいという切迫感を持っているのだろう。「こうではない」「こうではない」と常に嘆く存在なのだろう。

われわれは、解放されたいと願い――少しでも早い救済を望んでいる。それが、宗教の形をとっていることがある。すなわち、キリスト教はこの形をとっている。また、仏教も同等である。

われわれは、救済されたいと願っている。自由になりたいと思っている。しかし、それはすでにこの社会で実現することは、不可能である。決まってしまった構造のなかで、我々は生きなければならないからだ。

われわれが望むのは、すべてリセットすること。原初の状態に戻すこと。「何かのまちがい」が初めて存在したそのときの、前に存在してみたい、ということ。

0 件のコメント:

コメントを投稿