4.29.2016

道徳はサイコパスを克服しうるか

基本的にブログのコメントは読まないのだが、手違いで読んでしまった。そこで、サイコパスに人権を与えるべきか否かという点について、予期していた反応が返ってきていた。「サイコパスのような人間でも、肯定的側面がある」がゆえに、「彼らに人権を与えない」という主張は誤っているというような。

これらの意見は、ひとつにサイコパスに関する知識の欠如――科学的な知識と、実体験としての知識の両方の欠如から、誤って導かれたものだと私は考えている。私は、自分自身も抑鬱に追い込まれ、また信頼する人物を自殺未遂まで追い込まれたおかげで、新しい知識を身につけることができた。すなわち、必ずしも万人に人権は与えられるべきではないということである。

現近代に支配的なイデオロギーは、平等主義である。すべての人間は、それぞれ生まれながら自然権を有しており、だれもこれを害することができないという考えである。

このようなイデオロギーの広がりと定着は、ひとつの寓話の変化から見て取れる。「桃太郎」の結末は、現在では、「桃太郎は鬼を征伐し、宝物を持ち帰った」という風にはならない。「桃太郎は鬼を懲らしめ、彼らの謝罪を受け入れた。鬼たちは宝物を返却した」となる。ここで見てとれるのは、「どのような悪人であっても、過ちを認めることができる」というような、現近代の頭でっかちの左翼的な、すなわち幼児的なモデルである。

現実には、真の悪人は謝罪することはあっても、「反省」などという行為は不可能である。それはサイコパスが受刑後も犯罪を繰り返すことから伺いしれるし、また彼らが私の上司を自殺未遂に追い込んでも、自ら反省する素振りを一切見せないことから察することができる。
宮崎哲弥 鑑定が正常に行われたとしても、サイコパス、反社会的人格障害をどう扱うかという問題が浮かび上がってきます。おおまかに言えば、彼らの人権を尊重して危険承知で一般市民と同じ生活をさせるか、あるいは彼らの人権を蹂躙して隔離してでも安全な社会を守るか、という議論に二分されるでしょう。ただ、完全に彼らを放置するわけには行かないので、何らかのセーフティネットをかけておく必要が生じます。 
岩波明 イギリスではサイコパス患者にも精神病患者と同等の治療を施していますが、「多少は改善されそうだ」「いや、無意味だ」という論争が常にあり、いまだに結論は出ていないのですが、私見ではおそらくサイコパスが治癒する見込みは極めて薄いと思われます。現実的な選択肢を考えた場合、一定期間の隔離もやむを得ないのではないでしょうか。去勢、つまりホルモン抑制剤を注射するのも一時的な効果はあると思います。(「諸君!」2006年7月号より)
荀子・孟子の対立――すなわち性善説、性悪説という考えは、数々の議論を生んだが、私もサイコパスのことを調べてから、善悪二元論の立場を取るようになった。ただし一面的な性善/悪説とはならない。人間すべてを一緒くたにすることはしない。

私の考えでは、多くの人間は生まれついての善人である。彼らは広く人類という種のために働く。しかし生まれついての悪人も一定数存在する。善人が悪人の素振りを見せるとき、それは悪人による遠因・近因に依る。つまり、この世に悪人がなければ、人間は悪に陥ることはない。

ローレンツの「攻撃」によれば、動物のあらゆる攻撃は、種の存続に適っている。それは一見、人間の戦争のように「種を滅ぼす」行為に見えるとしてもである。ゆえに、こういうことができる。善人が攻撃心を持つことがある。ある残虐性を見せることもある。しかし、それは悪行ではない。種の繁栄のために必要な、自然な衝動だからである。つまり、ここでキリスト教的な、カント的な意味での罪の内在性は棄却される。

ところが、サイコパスの攻撃はそうではない。彼らは、他者への、もっと広く言えば「種」への共感能力が欠如している。ゆえに、他者を狡猾に利用し、ただ自らの利潤のためだけに行動する。根本的に、種におけるイレギュラーな存在なのである。

サイコパスをその姿形から、私たちと同じような種、同類と考えることが、数々の不幸を生んでいるような気がしてならない。実際のところ、ある人間が鬱病になってゆく仮定を考えると、そこにはサイコパスの存在がある。

「サイコパスもまた心を持った人間である」と思うとき、すでに罠にはまっている。「なぜ彼は、同じ人間なのに、私を道具か何かのように弄び、疲弊させ、労ろうとしないのだろう」と思うとき、多くの人間が自分を追いつめてしまう。「それは、私が未熟で、不完全で、悪人だからなのだ」。

これが多くの鬱病の発症メカニズムである。つまり、内省的人間が一次的に鬱病になるのではない(遺伝性の鬱を除く)。必ずそこには二次的要因があるのであり、多くの場合それはサイコパス的な非人道的な関係が見て取てとれるのである。

人類は長い歴史のなかで、なにか「苦悩の原因となるもの」を探し求めてきた。征伐すべき「鬼」を探してきた。それが、現代では「ユダヤ人」や「朝鮮人」や「ISIS」だったりするのだが、これらが稚拙な間違った考えであることは自明である。正しい敵、征伐すべき対象とは、「人間の顔をした悪魔」である、「サイコパス」ではないのだろうか?……というような、ひとつの仮説が私には棄却できないでいる。

1 件のコメント:

  1. 願わくば、この投稿も読んでほしいものですが…
    《サイコパス》というものが先天的に存在するという考え自体、デカルト的発想であり、あなたが軽蔑している大衆的、一般的な考え方です。(そうですよね?) サイコパス――――彼らは先天的に脳に異常があるのではなく、生きるなかで、サイコパスになるのではないでしょうか? 彼らをとりまく環境と状況のなかで、彼らがどのように〈自己-世界〉を肯定してゆくか。けっきょく、その自己肯定という苦しみの過程で、どのように三人称的で、観念的な〈ひ・と〉という存在を解釈してゆくか、という問題ではないでしょうか?

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