4.04.2016

「あいだ」を見つめる

木村敏の「自分ということ(ちくま学芸)」を読んでいるが、それによると「自己あるいは自分とは、私の内部にあるものではなくて、私と世界との、総じて人と人との「あいだ」にあるのだ」ということである。

このことについて詳細に説明する能力は私にはないが、なんだかいろいろ腑に落ちるところがあった。すなわち、私はある対象によって苦しめられることがあるけれども、これは一般的な「加害」「被害」のモデルでは説明不可能な部分があるのだが、この「あいだ」の概念によって説明可能になるのである。

例えば「いじめられっこ」と「いじめっこ」の関係があるとする。二人を結びつけるのは暴力や攻撃、侮辱などの「いじめ」の関係である。さて、この「いじめ」の原因は「いじめっこ」にあるのか?「いじめられっこ」にあるのか……。これは、よく話題にあがるテーマであって、「いじめっこ」が悪いという主張が一般的ではあるが、ときに「いじめられっこが悪いんだ」という主張があり、わりとどうでもいい論争が起こされたりする。

ここで、いじめを生じさせているのは、双方ではなく、「あいだ」の問題なのだ、と考えることが可能であると私は考える。「あいだ」とは、必ずしも「いじめられっこ」と「いじめっこ」とを結ぶ一本の線ではない。それよりも、「いじめられっこ」の環境における関係と、「いじめっこ」のそれとの複雑な関係性の結果として、「いじめ」という現象が表出するのだと私は考える。

この「あいだ」とは、いささか構造主義に似た感じになるけれども、ようは切り離された意味での「個人の意志」「個人の自我」は存在しないということである。これは、西洋の伝統的な価値観である自由意志の(一時的な)否定である。たとえ「いじめっこ」が、「私は、彼をいじめたいと思った。だから原因は私にある」と言ったとしても、それは「便宜上」は都合が良いのだろうが、ほんとうに論理的正当性があるとは考えにくい。

実際、現在の司法制度などは、この「便宜上」の理由により存在していると考えてもいいだろう。例えば劣悪な環境で育てられ、親に虐待を受け、貧困や暴力など社会的な抑圧下で育った子どもが、成人して犯罪をおかしたとする。この場合、彼は「悪い」のだろうか?彼は罰せられるべきか?現在の司法制度ではYesである。犯罪者を野放しにすることは公的に不利益だからである。しかし理性的な人間であれば彼にすべての責任を負わせることには抵抗があるだろう。このあたりは社会学でよく言われる「正当性justness」と「正統性legitimacy」の違いと考えても良いかもしれない。

われわれはhumanであるよりも「人間」であり、ある対象に意識を向けるよりも、その辺縁、一見なにもない辺縁を見つめることによって、より高次の認識を得られるのではないかと思っている。

というわけで、私はたびたび会社に違法な無賃労働を強いられ、また健常な性欲がありながら性交にありつけないといったような(まあ昨今の男性にありがちな)疎外感やフラストレーションを味わっているわけだけれども、その原因を例えば「経営者が悪い」「女が悪い」などと考えることは正しいわけがなく、そういった「不幸」の原因はいったいどこから沸いてくるのか、ということがここ数日のテーマである。

1 件のコメント:

  1. 対象でなく辺縁を見つめてみることは私の今取り組む問題の解決の糸口になりそうです。司法制度の話しに関しては真実と事実が違うということなのかな、となんとなく想像しました。

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