4.05.2016

ソショカー

暗い、冷たい、苦しい、つらい、というような言葉が私のあたまを支配しているのであり、この陽気な春の日光の下で何事かと思うくらいであるが、参ってしまうような日々のなかで、自分の精神の瓦解を防ぐことができるよう、食いしばり堪え忍ぶような毎日である(これらの言葉は、一歩一歩あるくごとに、あるいは脈の音に合わせて、頭に浮かんでくる。憂鬱はリズムや音感と関係があるらしい)。

他者と比べれば私は金をもっており上等な家に住んでいるがこれがいったい何を意味するのかわからない。彼らは私よりもっと搾り取られている。私から見ればまったくよくそんな状態で生活できるな、と思うときがある。しかし私だって、吸い尽くされていることには変わりない。どのように私の生気が蝕まれていくのか?私の体のエネルギーはどこへ流出していくのか?私は両手で水をつかむような気持ちになる。私はどのようにしても蒸散してしまう悲しいモノを眼前にした気持ちになる。

環境整備ということ、身の回りの生活についての根本的な情動の欠落があるらしく、「うまく生きる」ことができないでいる。実際「うまく生きる」ことこそ、現代では至上命題と言えるだろう。私は対人関係を継続的に維持する能力がないし、また生活における単純な作業ができない。それは支払いや契約などの手続きであったり、買い物や掃除などのきわめて基本的な作業なのだが、私にはこれらができない。電話をとることすらできない。仕事をして、酒を飲んで、寝る以外に、もう何もしたくないというのが実際である。

それにしても料理というのは気分がよいもので、今朝も早く起きてしまったから、トーストにバターを乗っけて焼いて、卵を二個割り、目玉焼きをつくっていると、やわらかなあたたかい気分になった。

食事に一種の毒素がまぎれこんでいるかもしれないと思った。食事も「あいだ」のひとつである。われわれは毎日のルーチンで、特段何を食べるかとかは、あまり意識しないものである。実際、食べ物が身体をつくるのだから……精神も身体がつくるのだから、またちょっと気を遣ってみようと思った。

それで、やはり野菜をたくさん採ることが大事なのだと思った。それと、肉を絶ってみようかと思った。最近精肉工場の画像を見て、おぞましい、と思ってしまった。スーパーで陳列されている肉はなんと清潔なことだろう!それは一個の生命であったのに。おぞましい、痛々しい、と思って、やはり同じ哺乳類であるから、同族の肉を食べるのは控えようと思った。

ベジタリアンになろうというのではないけども、牛肉、豚肉、あとは鶏肉も控えようというのである。ただ魚は食べるし(野菜ではご飯がすすまない)、乳製品や卵も摂ろうと思っている。まあ、つきあいで肉を食べることはあると思うが。胃腸への負担の軽減なるし、悪性腫瘍や成人病の防止にもなるだろう。

それにしても、人間はなにかを試みなければならない生き物のようである。生活の、ささいな変化に、とりすがるような、哀れな男である。

2 件のコメント:

  1. それはとても良い試みだと思う。森美智代『「食べない」生き方』がなかなか面白かったので、参考までに。

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  2. 日本のワークバランスの悪さは本当にひどいです。どんなに好きな仕事をしていても、好きなものに囲まれて仕事をしていても、いつの間にか感情が機能しなくなるくらい、神経がヘトヘトにすり減る。鮮やかな色彩の沢山の植物と差し込む春の穏やかな光に包まれて、心が死んだように無感覚になり、何かしなければいけないと思いました。自分の触れるもの全てが色褪せ、崩れ落ちていくようだなぁと思っていました。自分を守れるのも自分だけだって最近思います。

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