4.10.2016

宗教による怨恨の転嫁。

司祭とは、怨恨の方向を転換する人間のことである。実際、苦悩する者はだれでも、その苦しみの原因を本能的に探し求める。さらに詳しく言えば、なにか生身を持って活動しているような原因を本能的に探し求めるのであり、いっそう正確を期して付け加えると、ある一人の責任者を、つまり彼もまた苦悩することがありうるような悪い人間を求めるのである。要するに苦しむ者は、どんな口実でもよいからとにかく自分の激情を、実際にそのひとに向かって、あるいはその「人形(ひとがた)」に向かって吐き出すことができるような生きた存在を探し求める。なぜならば、激情を吐き出してしまうということは、苦しんでいる者にもっとも効果的な鎮痛の試み、痛みを麻痺させる試みであり、あらゆる種類の苦悩に対してほとんど無意識的に熱望される麻酔剤であるからだ。私の考えでは、怨恨とか復讐とか、それに類するものなどの唯一の、真なる生理学的な要因は、このような点にのみ、つまり激情=情念という手段を通じて、苦痛を麻痺させようという願望にのみ見出されるのである。(略)苦しんでいる者はいずれも皆、恐るべき素早さで、また驚くほど独創的なやり方で、自分の苦痛の感情にきっかけを与えた原因を見つけ出す。彼らは、自分こそ誰か悪い人間の悪意や卑劣さの犠牲になっているのだと思い込み、そういう疑惑をあれこれこねまわしたり、穿鑿することでさえも、一種の享受の対象にする。彼らは自分の過去、および現在を、その臓腑の底の底まで掘り返して、なにやら暗黒のストーリー、秘密めいた物語を見つけ出し、そこで勝手に苦しい猜疑に耽る、という具合に自分自身の悪意の毒に酔ってしまうのである。――彼らはいちばん古い傷口も、荒々しく開き、もうとっくに癒えている傷痕からまで血を流させる。彼らは自分の友人や、妻子や、その他最も近しいひとびとを、悪者に仕立て上げる。「私は苦しんでいる。それは誰かのせいに違いない」――すべての病める羊は、こう考えるのだ。だが、そのとき彼らの牧人、禁欲主義的な司祭は、彼らに向かって言う、「私の羊よ、まったくその通りだ。それは誰かのせいに違いない。だが、その誰かとは、おまえ自身だ。おまえこそその苦しみすべての原因なのだ、――おまえ自身が、お前自身の苦しみのただ一人の責任者なのだ!」と……。この言い方は、ずいぶん大胆であり、ずいぶん間違っている。しかし、これによって少なくとも一つのことが達せられているのである。すなわち既に指摘しておいたように、怨恨の方向が――転換されているのである。(ドゥルーズ「ニーチェ」より孫引き)
でも私の敵は、「彼もまた苦悩することがありうるような悪い人間」ではないのだけど……。

悪について知ろうと思って、本を調べていた。そのまま「悪について」という邦題のE. フロムの本があるが、数年前読んだときには、あまり良い本ではなかった記憶がある。アマゾンを探していると、バタイユが私の期待に応えるような本を書いていた。「文学と悪」というタイトル。その冒頭には、「文学の表現するものとは、悪の極限の形態である」と書いてあるという。

確かに……文学の表現するものは悪である。これは、悪人、悪の組織が描かれるとか、そういうことではない。文学とは、ある人間の苦悩を描くのだが、その苦悩の原因は、悪なのである。文学には、多かれ少なかれ、悪が表現されているのであり、おそらく読書好きであれば、文学という秘密の教義を通じて、悪の概念を浮かび上がらせることができるのではないかと思う。そう、宗教は、悪を見えなくする。特に大衆向けの宗教は……。しかし文学は、悪を描くことができる。この点で宗教と文学は対照的である。

真正面からこの「悪」について、調べ、研究することができるということは、私にとって喜びである。おそらく、私の知識が十分でなかったときには、悪を見抜くことができずに、上の「宗教」にしたがって、苦悩の原因は「私自身」だとしていただろう。

私の知識も、ずいぶん熟成してきたような気がする。知ることは楽しい。私は、本と酒さえあれば、どんなところでも生きていけるだろう。また、少しの苦悩も、知性には必要だ。



それにしても、昨日の猫が私にとってどれだけ救いになったかわからない。彼らは、私の苦悩を理解しているのかもしれないと思った。私は、ふつうの人々よりも深く苦悩を抱いて生きている人間であるが、それゆえかは知らないけど、動物とか、ものがしゃべれないくらいの子どもには、何かと好かれるのである。例えば、親がどんなになだめても泣き止まない子どもを、私が見つめると、子どもは泣きやむ。子どもは私の目を興味深げにじっと見つめるのである。猫も、子どもも、目で見つめ合うと、おそろしい量の情報が入ってくるような気がして、私は少し怖くなって、目をそらしてしまうのだが。

おそらく、言語以前の子どもや動物であれば、私の目が何を語っているのか、わかるのではないかと思う。私は、世人から疎まれるたいへん孤独な存在だけれども、まやかしにとらわれた人々以外には、私の苦悩が理解できるはずであり、それは人類というか、全生物共通のものであるだろう。

ゾウたちは人間がゾウを見るよりもずっと長く 人間を見てきたのです 人間がゾウを知るよりも良く ゾウは人間を知っています 私たちには同じ使命があり 子供の面倒を見 食べ物を見つけ 生きようとします アフリカの丘を 歩くのに向いているか 海中を泳ぐのに向いているかといった違いはあれ 基本は同じです 一皮むけば 私たちは似通っており ゾウの骨格も シャチの骨格も 人間と同様のものです 助けが必要な者を助け 子供は好奇心が強く 家族の間には 絆があります 愛情を見て取れます 求愛行動も共通しています(TED:カール・サフィーナ「動物は何を感じ何を思うのか? 」)


今日はずっとゲームをしていた。スーパーに行って、ワインと、輸入チーズと、ピザを買ってきた。ベジタリアン――ではなく、鳥獣の肉食を禁じるという生活は続けているけど、そうなると食べるものがほとんどなくなってしまうことに気づいた。しかしそれだけ野菜を食べるようになった。小ぶりなブロッコリーとにんじんの輪切りを塩ゆでして、マヨネーズで食べると、ほんとうにおいしかった。ヴィーガンだと、マヨネーズも使えないのか、と思うと、彼らの食生活はどうなっているのだろうと思った。

私の周りで「ベジタリアン」なんて見たことがない。せいぜいネットでベジタリアンを見つけるくらいである。私は、別に「信条」というほど肉食を禁じているわけではない。ようは、健康に悪いし、金がかかるし、スーパーの肉はまずいし、それに「なんとなく不快」だから、可能な限り避ける、というだけだ。ここはバートルビーの「それをせずにすめばありがたいのですが」というレベル。

学生のときは、たらふく肉を食べたくてしかたなかったけど、肉は魚と比べて高かった(半額になりにくい)から、魚ばかり食べていた。また、肉野菜炒めや唐揚げは、学食でも高かったから、サバや塩鮭ばかりをおかずにしていた。就職して金銭的に余裕が出てきて、いざ肉が好きなだけ食べられるようになっても、あまり思い描いたほど、肉食は楽しくなかった。年齢のせいかもしれない?小学生くらいの頃は、インスタントラーメンが大好きでしょうがなかったけど、今はそうでもない。

なんだかくだらないことをたくさん書いた気がする。明日が仕事と思うとつらいが、私は運命に身を任せ、執着なく、超然としていたいと思う。

1 件のコメント:

  1. 難しくて半分もわからないのに、このブログを読むと安心するのはなんでだろう、、文学は人間の苦悩を描く。絵も音楽も表現と呼ばれるものは全て苦悩と共にあるのだと思います。書かずにはいれなくて書く。描かずにはいれなくて描く。鳴らさずにはいれなくて鳴らす。そうやって生まれたものにしか深い共鳴は得られない。優れた芸術作品はその人の人生そのものだと思います。そう生きずにはいられなかった作家の残した断片に心が動きます。作品を見て、新しい視点は得られても、心の琴線に触れて涙が止まらなくなるような、それで心の奥底に住み着いてしまうような作品に出会えることは本当になかなかないのです。 なぜ、苦悩するのか、、それがどうやって悪に結びつくのかがまだよくわからないのですが、、。素人考えですが苦悩は孤独からくるのだと思っていました。s.k

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