4.09.2016

猫と海と

職場で浮き始めた私だが、そこまで心労にはならない。いつものことだ。かつてそうだったし、これからもそうである。

人間であるということが成立しがたい社会である。狡猾な人間に、田舎の凡愚は道具のように利用されている。私には彼らを使役する手が見えるけど、それを指摘することはしない。私ができることは、ただ離れるだけだ。私はだれかになにかを諭すことはできない。生まれつき、しゃべることが苦手なのだ。それに、だいぶ込み入った話であるし。

またヴェイユの「重力と恩寵」を読んでいた。
悪が清められなければならない――そうでないと、生きていくことは不可能だ。ただ神のみに、このことができる。これが、『ギーター』の思想である。また、モーセやマホメットやヒトラー主義……の思想である。だが、エホバやアラーやヒトラーは、地上の神々である。かれらが行う清めは、想像上のものである。
そう、私もギーターを読んで、悪が清められる――魔性の胎に抛擲される描写に、興奮したものだった。おもえば、西洋思想って悪に対しての記述が少なすぎるのではないか?美、真、善ばかり追い求めてる間に、悪に蝕まれている。
罪のない人が苦しむとき、その感受力には、いわば、犯罪が感じとられているのだといってもいい。真の犯罪は、感じとられるものではない。罪なくして苦しむ人は、自分を苦しめる加害者の真の姿を知っているが、加害者の方は知らない。罪のない人が自分自身の内部で感じとっている悪は、加害者のなかにあるものだが、加害者の方は、自分の中にそれを感じとっていない。罪のない人は、ただ苦しみとしてだけ、悪を知りつくすのである。犯罪者において感じとられていないものが、犯罪なのである。罪ない人において感じとられていないのは、自分に罪がないという一事である。
罪なき人こそが、地獄を感じとることができる。
この世の中には、地獄を感じるひとと、感じることのないひとがあるだろう。私も、田舎の凡愚も、地獄を感じることができる。ただ、彼らは使役されることによって、私を攻撃することによって、たしょう「楽に」なっている。彼らは罠にはめられているのだが、そのことには永遠に気づかないかもしれない。
純粋さは、それが純粋さであるかぎり、すなわち、どんな暴力もその純粋さを少しでもくもらすことができないという意味において、絶対に傷つけられることのないものである。だが、悪におそわれて苦しみをなめさせられ、どんな罪に触れられてもそれがみずからのうちで苦しみに化するという意味では、何よりも傷つきやすいものである。
悪が侵すのは、善ではない。善は、侵すことができないものだからである。ただ、堕落した善が侵されるにすぎない。
私には、だいぶはっきりと善人と悪人を見てとれることができるようになった。私を攻撃する人間は、善人も、悪人もいるが、善人が私を攻撃するときには、私は彼らに自由が与えられておらず、罠にはまっており、使役されているのだ、と思うことにしている。私には善人を憎むことはできない。しかし、また善人を味方につけようとは思わない。私は、とにかく逃げることばかり考えているのだ。そしてそれが最善なのだ。

またいつもの公園に行って、猫を愛撫していた。猫は、だんだんと愛想がよくなってくる。今日は私の膝に乗って、前足をぐーぱーしていた。猫の重さと体温を感じながら、海を眺めていた。いまのところ、猫と海と世界が私に味方している。そう考えると悪とは些末なものである。

1 件のコメント:

  1. ああ!わたしはここにいて、あそこにもいる、そしてここにも!

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