5.17.2016

As a baby

毎日の冷たい重苦しさ……「死にたい」という感情から、泥沼から、とりあえずは逃れている。人間には暖かみが必要であり、急激な暖かさでは燃え尽きてしまうし、持続的な、明るい暖かさが必要であることを知った。

これからの人生を、考えているが、私ももう、多くの青年と同様、何もかもできるという幼児的な万能感を持たなくなった。私の未来は、制限されていることを知った。「約束された未来」に奔走する必要がないということは、楽であり、また苦悩を生むことでもある(世界はそこに用意されている/されてしまっている)。すなわち、私は自分が大成するとか、何か著名人になるとか、世間一般に、優れた人物である、少なくとも、他人と比べて「上出来の人間」になることができる、あるいはそうなるべきだ、という感覚が、根底から損なわれている。

エライヒトハ、ワルイヒト……。まあ中二病と言われてもかまわないが、私は成功は失敗と同じくらいつまらないものに思える。虚無主義的か?私は「何かを目指す」べきか?たとえば、億万長者を?著名人を?偉大な芸術家を?

私が今興味あることは、宗教を解き明かすこと、人間の秘密、社会の秘密を知りたいと思うこと、世界の解明をしたいということ、世界をより鮮明に認識したいということである。「偉大な芸術家になる」と決意するような、夢遊病的な鼻くそ芸術家を私は笑う。でも、私はより多く笑われるのだろう。

何も為さず、何も生み出さず、こうして若さを失っていく。ただ、認識の光は鋭くなっているのか、何か「進歩」しているのか、それはわからない。いろいろなことを経験するが、より高く、より深くに進んでいるというよりも、どんどんと本来的なものに戻っているような気分がある。すなわち、私はすべすべお肌の赤子に戻ろうとしているのではないかと思う。赤子には、すべてが新鮮であり、すべてが滑稽である。そうして、ただ自然であることが可能である。周囲が私の世話をしてくれるからだ。私はすべての赤子がそうであるように、社会の外に置かれており、そうであることを周りが求めている。そんな気がする。

私は周囲の好意に、大いに甘えることができる。それを私は受容する。許容する、と言ってもよいかもしれない。愛だの、ミルクだの、あたたかい毛布は、すべて母性的な観察眼によって用意される。女の中の女たち。私はただ、「然り」「否」と述べるだけで良いのである。光を発するか、拒絶するか。ささやかな神殿に祀られた私の仕事は、唯一それだけであり、しかしそれはほとんどだれにもできない仕事のように思われる。

このようなことを、27歳になるおっさんが語っているのだから、不気味に思われるかもしれないのだが、私はたぶん、14歳の頃よりはるかに子どもじみているし、22歳のときと比べてもより子どもである。正しく「否」を発すること。結局、あらゆる知はこれを達成するための道具であり、現実のわれわれはそれすらできない――まったく、ほとんど無力である!ことから、繊細な皮膚感覚を持った子ども、これこそが「人間の解決」にもっとも近い存在なのだと思う。ようは、「分別ある大人」を気どった近代精神は、もうだれも見向きはしないということである。

0 件のコメント:

コメントを投稿