5.03.2016

サタンとサイコパス

「ほかの人があなたに帯を結びつけ、行きたくないところへ連れて行くだろう。」ヨハネ福音書
月曜日、仕事量への不満と経営者への軽蔑がピークに達したので、退職届を出す一歩手前まで行ったのだが、用事が立て込んだのでまた控えてしまった。連休明けには提出する予定である。

サイコパスに関する記述を調べている。近代精神に嫌気がさしたので、宗教の文献を探している。おもしろい記述がひとつあった。

藤井武「黙示録講義」第十七講 サタンの実在より。
サタンと称せらるるこの赤く黒きものが果たして実在するか。今もなお空中に権を執とり不従順の子らの中うちに能はたらくこの霊の宰(エペソ二の二)が果たしているか。歴めぐりて呑むべきものを覗うかがう悪魔(前ペテロ五の八)が果たして住んでいるか。近代人のほとんど全部がかかるものの実在を否定する、マルクス主義者特にしかりである。けれども我らにおいては、「子を産まんとする女の前に立ち、産むを待ちてその子を食らい尽くさんと構え」ている恐ろしき実在がある。かくのごときものが、我らの人生において歴史において、内的に外的に誘い脅おびやかし覗い狙っている。良心が本当に目ざめ、罪とはどんなものかを知りし者は、何ものか背後に働く力ある黒き実在を認識せざるを得ない。魂が真面目にこれと戦い始めたる者は、一度は苦しみと悩みのどん底に陥らねばならない。パンの問題のごときは魂を苦しめる問題ではないのである。根幹の朽ちたるを顧みずして、徒に枝葉を生かさんと焦慮する近代人の愚かさよ。神との関係正しからず、魂の問題の解決をよそにして、何の朽つべき腹の問題ぞ。たとえ腹は満たさるるともそは塵溜のみ。イエスは荒野にて何ものと戦いたもうたのであるか。彼の勝利は何を意味したのであるか。「すべての試煉を通して完く果たされし一人の人の確き従順」(ミルトン)によりて、曠野にエデンを見るに至りし恩恵を人は知らないのであるか。

パウロもアウガスチンもルーテルも、ただこの黒き実在サタンと戦ったのである、そして主のみもとに馳する外に、この者に勝つべきすべの一つだになきを知ったのである。ただ信仰である。ただ恩恵である。ただ十字架である。聖霊の祈りが我らのための盾となり矛となる。我らは信仰により天よりの力を与えられ、打ち勝ち難きサタンにすら打ち勝つ。世に勝つは、「彼もし我を殺すとも我は彼によりすがる」(ヨブ)との信あるのみ。力も勝利も栄光もキリストに在り、キリストの有である。小さき己れの力や智慧をかなぐり棄てるものが、「サタンよ斥しりぞけ!」と云い得るのである。
さすが「失楽園」を翻訳した藤井武、かっこいい文章。このなかの「魂が真面目にこれと戦い始めたる者は、一度は苦しみと悩みのどん底に陥らねばならない。」というのが、今の私の心境と一致する(パニック障害にもなったし)。

キリスト教における悪の象徴といえばサタン=ルシファーだけれども、藤井によれば、サタンと戦うにはただ信仰しかないということである。(なお藤井は内村鑑三の高弟であるらしい。内村鑑三に対する評価が少し変わった)。

それで、キリスト教関係を調べていると、どうやらサタンは単なる象徴ではなく、「実在するもの」と解釈するのが一般的らしい。
多くの人々が、サタンは存在しないのだとサタンによって信じ込まされていますが、サタンは紛れもなく実在するのであり、人格のある存在であり、すべての不信仰と世にあるあらゆる類の道徳的および霊的な悪の源なのです。(おなじみgotquestions.orgより
「エホバの証人」でも、同様のことを説いている。
はい,実在します。悪魔は「世の支配者」であり,邪悪になって神に反逆した霊者です。(ヨハネ 14:30。エフェソス 6:11,12)聖書は悪魔を以下のように呼んで,どんな者であるかを明らかにしています。
サタン(「抵抗者」を意味する)。―ヨブ 1:6。
悪魔(「中傷する者」を意味 する)。―啓示 12:9。
蛇(聖書の中で「欺く者」という意味で使われている)。―コリント 第二 11:3。
誘惑者。―マタイ 4:3。
偽り者。―ヨハネ 8:44。
悪魔 サタンとは人の内面の悪の象徴にすぎない,と考える人もいます。しかし,聖書 には神とサタンが交わした会話が記録されています。神は完全な方ですから,ご自分 の邪悪な部分と話していたとは 考えられません。(申命記 32:4。ヨブ 2:1‐6)さらに,サタンは罪のない方であるイエスを誘惑しようとしました。(マタイ 4:8‐10。ヨハネ 第一 3:5)ですから聖書は,悪魔が単なる擬人化された悪ではなく,実在者であることを示しています。
悪魔が実在することを信じていない人が多いというのは,意外なことではありません。聖書によれば,サタンは自分の目的を達成するために人を欺くからです。(テサロニケ 第 二 2:9,10)非常に巧みに多くの人の思いをくらまし,自分の存在を隠しています。―コリント 第二 4:4。(「悪魔は実在しますか」
悪魔は象徴ではなく、実在する――というのが、キリスト教の一般的な教えのようである。

悪の根源であるところの何者かが存在し、それが善なる人々を苦しめる、というような、サイコパスとの一連の出来事から学んだ事実は、すでに聖書に記述されているものであった。

カントに関する論文を読んでいると、人間にもともと「根源悪」があるとされているから、キリスト教も内的な悪を説く宗教だと思っていたが、そうではないらしい。

サイコパス=サタンとは、単純には言えないけども、聖書におけるサタンの扱いを見てみると、ほとんど同一視してよいのかなと考えている(中傷する者、欺く者、誘惑者、偽り者……)。

藤井の指摘したように、サイコパスへの抵抗はほとんど失敗に終わるのであり、「ただ祈るしかない」となる実情もわかる。さてそれでどうするのか。



仕事をやめたらまず旅に出ようと考えているのだが何かと入り用である。旅は金がかかると思うと惜しい気持ちもある。ただ20代のうちに旅に出ないと、「すべてが手遅れ」になるような気はしていて、それなのでとりあえず旅に出てからいろいろ考えてみようと思う。

私の親戚が某商事に勤めているのだが現在はモスクワの支社に勤務しているらしい。ロシアというからウラジオストクあたりだろうと思っていたのだがはるかに遠かった。それが6月に帰国するというので、それまでにロシアへ行きたいと考えている。まあ、時期的に厳しいし、あてのない旅でもよいのだが。

他、親戚のつてでカナダやオーストラリアに移住した人びとを紹介してもらえることになった。こういう人は、日本からの来客があると、さかんに世話をしてくれるものらしい。何かこういった血縁的な関係があると、旅がずっと頼もしくなる。

甘えてよいのかという気もするが、旅とは善意に甘えなければやっていけないものだ。何もかも自分で、一人前にできることはない。――とくに初めのうちは。それを知ることも、成熟のひとつである。

2 件のコメント:

  1.  サタン=悪魔=堕天使ルシファーであるわけで
    、悪魔=サイコパスなら、サイコパス=堕天使ルシファーといえるなら、サイコパスは実に有能な部分もあるといえるのではないでしょうか?
     逆にサイコパスは良心が欠如しているので世の中の悪しき慣習に楔を打ち込むこともできるのではないでしょうか?
     例えば、ユダヤ人はナチスによって迫害されましたが、穢れた血として当時汚い仕事として認識されていた金融の仕事を率先してやらされた結果、富裕層が増えたと言われています。
     汚い仕事をやらせておいて、自分達に都合が悪くなったら批判して排斥するなど、何て普通の人は恐ろしいのかと思ったことがあります。
     先のブログの桃太郎にしても、桃太郎の視点からではなく、鬼の視点から描かれた物語が太宰治の小説にありますが、確かになるほどと思わせる部分もあります。
     結論的には、そんな風に考えさせられる職場に身を置くことは、黒崎さんの思考に果たして良い影響をもたらすのかはなはだ疑問であると言わざるを得ません。一方で一度辞めてしまうと劣等感とか孤独感に苛まされるかもしれないので、その点が心配です。

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  2. 私も20代後半で日本をでました。
    ありきたりですが、離れてみると日本社会の善し悪しがわかるものです。
    ありきたり過ぎる言葉が身をもって感じられるのです。

    知は活かされてこそです。良い出会いによって自分を磨いていって下さい。人によって人は磨かれます。自分より考えの深い、経験の豊富な人に出会うこと、鼻柱をへし折ってくれる人に出会うこと。本は確かにすごい。でもレスポンスくれませんから。

    私は、黒崎さんのお陰で良い本を沢山知れて、日本から取り寄せてもらってます。木村敏の「時間と自己」からゆっくり読んでいこうと思っています。 s.k

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