5.15.2016

人間への信頼

ウォーラーステインの「史的システムとしての資本主義」を読んでいると、新しい世界認識が広がっていく感覚がある。渾沌とした現近代を俯瞰し説明し理論づけたこの本は、時代に翻弄されがちな我々にとって礎となる知を与えてくれると思う。

善意を持たない生き物――サイコパスの問題は、宗教的な意味では善と悪なのだけれど、キリスト教的な「善悪二元論」を私も信じることによって(つまりサタンは存在すると信じることによって)、人間に対する慈愛のこころを持つことが可能になった。
それというのも、私は世間に受け入れられないことをたいへん悲しんだ時期があって、どうして人に構ってもらえず、またときに裏切られ、疎外されるのかわからず、翻弄され当惑されるだけという時期があった。

その原因は、いまでははっきりわかるのであり、善人と悪人を、区別しなかった――つまり、笑ってしまうくらいのお人よしだったのだ。どんなに智慧をつけた善人であっても、悪人は御しがたいものである。智慧ある善人は、悪人からはただ離れるものである。私は愚鈍だったから、悪魔に気に入られようと、無駄な(そして危険な)努力をしていたことになる。
それからは善人に対する慈愛の感情は捨てがたく、私も孤独に沈むというよりは、多少の調和と同族意識を持って、他者と接することができている。このことは、私が凡庸であることを意味するのかもしれない。

偉大な哲学者は、高齢まで独身であったり、性的な倒錯を示している。私はその気になれば、結婚して子どもを作ることも自分で想像できるようになった。一個の、平和な家庭。生の現実の前には、山ほどの思想や教条も消え飛んでしまう……のかもしれない。
ただまあ旅行だけは実現しておきたいと思うのでありそのため仕事を辞める手筈を整えなければならない。今日は祖父の法要のため、職場から500km離れた実家の方にいるのだが、「土曜日」の出勤を休むためだけに、さんざん経営者サイドと揉めたのであり、私は辟易とさせられた。ただ、私の周りの同僚たちはすべて、私に味方してくれて、いろんな説得案を立ててくれた。ここでも、善人と悪人という区別は、はっきりとしていた。もちろん、これは単純に経営者、労働者の対立と言えるのかもしれないが。

異常な会社……であることは事実であり、今週から私の会社に派遣で雇われた女性(派遣事業部の役員らしい)は、「あなたの労働量を聞いて、卒倒しそうになった」などと言っており、さかんに「あなたのようなまじめな労働者は、私なら粗末にしない。私のところにくれば、もっといい給料でもっと休める」と誘ってくれてるので、もしかすればよりよい労働環境に転職できるのかもしれない。

ただとりあえずは数百万円の貯蓄ができたのであり、これ以上金を貯めても意味がないという気がする。世の中のひとびとはなんのために金を貯めているのだろう?老後のためにだろうか。老後のためにと言っても、年金もあるし、年金がなければ、生活保護を受ければよいだけと思えるのだが。

少しでも偉くなれるように、自由になれるように、お金を貯めるのかもしれない。でも、金を貯めたから偉くなるとは思えないし、人間はすでにして自由であるという風にも感じる。あとは知恵と勇気の問題だ。見えない柵を頑迷に認めようとする人がある。本当にそう思い込んでいるのだし、ときには「柵があってほしい」と願っているときもある。見えない柵につまづいて死んでしまう人もあって、これは滑稽である。

旅の計画を立てており親戚連中にも伝えてあるのでもう手筈はだいたいOKだ。問題はやはり退職ということになるのだが、私は一日働くと手取りで二万円くらいの給料にはなり、二万円というと海外で少なくとも四日間は旅できる計算であり、そう考えるとずるずると働き、金を貯めこんでしまう。まあ資金が潤沢であるに越したことはないだろうが。

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