5.16.2016

どろのそこ

旅の準備……。旅の準備。

まず、仕事を辞めてしまうこと。これが、難しい。単純に、名残惜しいという気持ちがある。小市民的な私は、仕事を通じた人間関係に、いくらかの救いを見出している。私の職場の後輩は、こう言っている。「退職だと?私たちは、友達ではないのか。裏切るのか」と。まあ、友達と言っていい間柄だ。私は他人とここまで密になったことはない。ある攻撃者、敵愾心、障壁、悪人――を前にすると、とりあえず人は親密になる。また、私はいくらかの独立心を持っているのに対し、女性はおおむね、孤独に耐えられない性質を持っているらしい。私は、彼女の存在がなければ、さっさと仕事にケリをつけていただろうと思う。愛情も、蹴り落として、旅には出なければいけないだろうか?そうでなければならないのか……。まあ、単なる友人であれば、私の旅立ちを応援してくれるのだろう。

それにしても……勤怠管理の記録簿が、なかなかコピーできない!これができれば、私は未払いの残業代、多くて100万円を超すだろう金額を、請求できるのだが……。私のやり残した仕事は、いかにしてサイコパスの搾取した金銭を勝ち取るかである。私は、これを一種の儀式として、遂行せねばならない。サイコパスへの訣別の儀式である。つまり、今後はサイコパスに搾取されることを許さない――もっと言えば、サイコパスを決して許さないということである。

許さないということは、もはや人間とはみなさないということである。我らが人類にとっての害悪と見なすということである。このような考え方は、妥当だろうか?狭量なレイシズムだろうか?レイシズムは、いささかの処世術を意味する。だれも不便な教条は信仰しないからである。ゆえに、当時のナチスのユダヤ人蔑視はいくらかの合理性を持つ。ただナチズムが誤謬と混乱に満ちているのに対し、サイコパスに対する敵意は適当と言うことができないだろうか?彼らが紛れもなく、「悪」であるならば。善悪二元論――始めは、われわれの中に悪があると考えられた。しかしこれは間違いである、とされた。ヒンドゥー教では、初めから否定されていた。次に、われわれの外に悪を求めた。それは人種差別であったり、封建主義であった。しかしこれは間違っていた。最後にわれわれはサイコパスに行き着いた。これこそが、悪の極点だったのである……。さて、これが「最後」なのか、単なる「次の」外的対象なのか?これを知るには、時代の進展を待たなければならない……。われわれは「厄介な隣人」を克服できるのか。

「私は、間違っている」のか、「私は、苦しめられている」のか。私は後者に移行しようとしている。人間、そうやすやすと間違うはずがない。すべての動物が、合理的で、幸福であるように、人間もまた不合理である権利を与えられているわけではない。人間は近代に不合理を愉しむ遊びを発明したけれども、不合理を愉しむ彼らは、まさに合理的理由によってそれをなしたのである。それでは私はなぜ、自分の精神を疑い、潰し、憎んできたのか。「お前は間違っている」と言う人間がいるからである。私はカミュの「異邦人」の言葉が忘れられないでいる。「私は常に正しかったのだ!」

すなわち、They were wrongというわけで、われわれが苦悶する以上、われわれは人間であるのであり、サイコパスではないということになる。しかしこれは困ったことに、ニーチェの言う奴隷根性そのものである。われわれは、苦痛に耐え忍ぶ無力な弱者である⇒ゆえに救済される価値のある人間であるというような。実際のところ、サイコパスは「強力」である。ほとんど精神破壊の兵器と言っていい。奴隷根性……まあ、サイコパスに対して「左の頬をさしだす」というのがまったく間違いであることはわかる。かといって、強固なサイコパスに真正面から立ち向かえるはずがない。そうであるから、我々には跳躍する足が必要なのである。つまり、逃げる、ということ。さすがにニーチェも、逃げのびるしなやかな足を持った跳躍人を、奴隷だとは思わないことだろう。自由人、かろやかな蝶、たしかな脚を持った逃亡者。

今日は酔っぱらったのでもう寝よう。

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