5.19.2016

皮膚の感情

昨日一昨日と、だいぶ錯乱したような日記を書いたけれども、実感としては変わらない。よき認識とは、「否」であり、根源的・無意識的な拒絶である。それは理性よりずっと皮膚感覚に近い。実際のところ、近代合理主義とは、この皮膚感覚をひとびとから奪うものである。「我こそ真なり」――それはプラトニズム一級の詐欺であった。理性を信奉し、人間を否定する。この逆立ちした思想はキリスト精神につながり、次には民主主義や資本主義に姿を変えた。

キリスト教の歴史が血塗られているのは、他民族を動物と見るからである。つまり他の動物には「理性がなく」、したがって「処分可能な動物」であり、それは豚や牛のように「神がわれわれのために用意してくれた」生き物なのである。だから彼らは容赦なく未開人を殺し、奴隷に鞭打つ。ほんとうのところ、キリスト教は人間中心主義ではない。キリスト教とは、理性主義であり、人間を否定している。また、「生」も批判している。人間中心主義とは、ニーチェがキリスト教の対極に見たものである。「大地を愛せ」、これがニーチェの第一の主張である。

そんなわけで、「神が死んだ」現近代では、民主主義や資本主義のような神の残渣も、しだいに消滅していくのではないかと思う。我々は天を拝むことをやめ、肉体への信頼を取り戻すことができるのではないかと思う。そのことにより、われわれの当惑と混乱の結果であるところの精神病が癒やされる。われわれは世に害悪をふりまく悪人を見分け、それを忌避することができる。大地に足をつけ、すべてを愛し、人間としての生活が営めるのではないかと思う。

あらゆる生き物が「幸福に」暮らしたいと願っている。これは事実だろう。仏教やキリスト教は、われわれの生涯は不幸でしかないと説く。これは、明らかに理性主義的な考えである。幸福は、理性では証明できないからである。理性で証明できるのは、不幸だけである。「私は病気だ」「私は貧乏だ」「私は孤独だ」だから、「私は不幸だ」と帰結することができる。貧乏でも幸福な人間もいるが、仏教やキリスト教は、「それは理性的ではない」と否定するのだ。

われわれが理性を信仰し、人間を捨て去るときに、われわれを待っているのは不幸だけということになる。近代精神のたまものである「小説」でも、同様である。小説とは、われわれに襲いかかる不幸を描くものである。われわれがいかに苦しんでいるか、を教えるのが小説である。主人公はそれに打ち負けてもいいし、克服してもよいのだが、ともあれ「不幸」がわれわれの世界に満ちている、これが小説のテーマのほとんどすべてである。

「われわれは不幸だ」これがプラトニズム――近代精神のドグマである。



それでは、われわれは幸福なのか?まず第一に、私は幸福なのか。私は、幸福であるという気がする。このような感覚は、20年以上もっていなかった。持ったとしても、それは錯覚であり、すぐに潰えた。ただ、今回は人間への信頼と再評価を下すことができたと思う。

それはやはり、善性と悪性の人間の区別がついたということでもある。サイコパスとか、自己愛性人格障害の人間と、ふつうの人間……「幸福である権利を持つ人間」の区別がついたのである。もっとも、ふつうの人間のほとんどは、権利を行使することがないのだが。

悪はただ、われわれが善であることを教えてくれる点でのみ有意義である。悪と接し、悪を理解すると、われわれのすべてが正しく、十全な人間であることを教えてくれる。

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