5.28.2016

猛獣の爪

孤独の冷たいような感覚が消え失せている。持続的な愛情が私から創造を引き離している。「あなたの孤独のなかへいきなさい」とツァラトゥストラは叫んだけども、孤独であることによって、ひとはたしかにある部分を肥大させることができる。それは「近代的自我」と言うべきものである。

創造は、孤独とセットである。孤独は不幸と同義である。また、不幸は現実と同義である。ゆえに、現実に生きるということは、不幸を生きるということである。動物は、現実を見ない。現実に生きるヒトにとって、動物は夢を見ているように見える。愚鈍、痴愚、凡愚、それらが動物を表す言葉である。

日本人もまた、動物であった。それがゆえに、西洋の人間中心主義に触れた日本人は、「我々が木々や岩よりも偉いなどとは、不思議なことだ」と述べたのである。

言葉――現実とは、言葉である。「はじめに、ロゴスありき」。我々の現実は、言葉によって拓かれた。このことの意味は、不幸も言葉によって発明されたということである。

非言語的な領域――とは、非科学的な領域である。説明したがり屋の科学は、あらゆるものを言語によって分解・処分した。さらに「近代精神」は、それをあべこべに組み立てることさえした。

言葉は人間をも支配した。初めに言葉があったのなら、人間は副次的なものである――言語は、人間よりもずっと神に近い。これがプラトン一級の詐欺である。

あえて「創造者」になろうというのなら、現実と不幸が用意されている。その道も良いものかもしれない。幸福を目指すのであれば、凡愚になることである。凡愚も、決して悪いものではない。

もっとも、近代精神は叫ぶ。「凡愚になるな」と。安心して夢を見ている動物を、鞭でたたく真似をする。彼らはつねに我々の邪魔をする――多くの人間を、不幸に引きずり込みたいのだ。そうして、不幸のなかでa little betterな自分に満足したいのである。

あらゆる人間が、人間的な営みを持っていることは、驚くべきことである。私は、ヒトはずっと動物に近いのではないかと思っている。動物としてのヒトを、観察したいと思っている。これは科学的視点である。科学の究極的な目標とは、科学によって、科学の消滅を果たすことではないかと思っている。

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