5.30.2016

ノンフィクション作家のおじさん

昔読んだ本を再度読んでみたが、なんだかくだらなくて読めなかった。

哲学書とか、思想書にしてもそうである。何か論理の持つ領域に失望のようなものがある。このような態度が行き着くところは神秘主義である。ひとことに神秘主義というと、ヒッピーのようなイメージがある。それは限局的な特殊な、ある例外的な文化である。

しかし実際のところ、神秘主義の担う領域はロゴス外のカオス全域である。ゆえにその範囲はまこと浩々たる世界と言わざるをえない。ショーペンハウエルなどはわれわれは不幸の海に浮かぶ一隻のボートのようなものだとしたが、理性的領域ロゴスとはまさしく一隻のボートであり、カオスは大海である。神秘主義とはこのひろい領域を扱うのである。

われわれの能力がはるか及ばない深く黒い大海を悲観的に思うことができるし、また一方でニーチェのようにあえてそれを肯定するということもできるかもしれない。ニーチェの思想は一個のマッチョイズムである。われわれは苦痛に耐えてこそ強くなれる、より優れた人間になれるというのがソクラテス以前のギリシャに憧れたニーチェの考えであった。

ソクラテス以降、真理は理性と結びついてしまった。つまりカオス的領域を排除した、アポロン的領域こそ真理であるという考えが広まったのである。ほんらいソフィストは、カオス的領域も重んじた。それは理性よりも心の領域であった。それを迷妄だとして、ソクラテスは喝破した。それは実際「正しかった」が、いくぶんか「間違っていた」。なので、ソクラテスが国王に処刑されたことにも、正当性はあったのである。真理が女だとすれば?とニーチェは言うが戦士的人物、マッチョこそ真理に近しいのかもしれない。なよなよした理屈屋に女はなびかないからである。



旅の準備を進めている。旅の道具をそろえている。とりあえず、カナダから南米へ下る。そこから汽船でオーストラリアという旅程を考えている。ビザとか、国際免許の関係がわからないし、南米からオーストラリアへ船が出ているかわからないのだが。まあとりあえず米大陸を今回は行ってみようと思う。気が変わったら、ヨーロッパ~アフリカだろうか。

旅に出ることを周囲にそれとなく伝えているのだが、海外に移住している人をいろいろ紹介してもらえることが多い。私のように、日本で生きづらいと感じるような人は、思ったよりたくさんいるらしい。

旅に出ると言っても、1年以内には戻ってきて、それから転職ということになりそうだ。結局、社会のしがらみを免れたわけではない。新しい会社は、日本各地を回れるとのことであり、私のように気ままにあちこちいける人間は重宝されるらしい。収入も、今の収入よりずっといいとのことである。今でさえ、ふつうの同年代の倍くらいは貰っているのだが。

金銭的成功を得ても、それが必ずしも幸福とは思わないが、しかし金があればあるほどよいということは言えるだろう。その点私は清貧を説きながら金を蓄えたセネカに味方する。バイクでの海外旅行にしたって、金がなくてもなんとかなるだろうが、金があればずっと楽になるのである。

ただ私のいままでの願望をどうするかということがある。ひとつに文筆家になりたいというような夢があった。私は詩人としての才能を自分に感じることはあるけれど(少なくとも平均人よりは)、でもたぶん世間的に成功するような文筆家にはなれないと思う。キャッチーでない。堅くるしくて人好きがしない。うまくもないし、うまく書こうという気がない。

私は楽器をやるが、これも同様である。私は自分の楽器を、自己流で勉強している。ある程度は上達するが、そこでとまるのである。もちろん、続けている限りはうまくなる。しかしそこからは、より上級者の指南とか、コンサートなどの公開の場がないと上達しない。ただ私はこのふたつとも嫌いなのである。

そういうわけなのでだらだらと趣味で続けるのがちょうどいいのかもしれない。私は自分が村上春樹のような売れっ子になる画が想像できない。かといって貧乏小説家になるのも嫌だ。生活を犠牲にする気はない。それに、小説自体が嫌いだ。文章家って、だいたい小説家でしょう。私は小説をほとんど読まない。古典なら読むけど、今どんな小説家がいるかは村上春樹くらいしか知らない。その春樹すら読んでいない。

バイク旅行の冒険譚を書いてこれを電子書籍として出版するのがなんだかちょうどいいという気がする。これはおもしろそうだ。今と同じように日常をつづるだけだから気負う必要もないし、後進があれば一定のニーズもあるだろうし。ふーん、ノンフィクション作家という道もあるのか。

0 件のコメント:

コメントを投稿