5.05.2016

悪の極点

大変平静な気分で休日の気楽さを味わっている。ただ長く続くとやるべきことがなくなってくる。



昨日はバイクで散策していると、突然ガス欠してしまった。タンクはリザーブ状態であり……。あまり覚えてないのだが、前に給油したときに満タンにしなかったのだと思う。満タン給油だと300kmは走るのだが、トリップメーターは200kmを指していた。

途方に暮れた。少なくとも10kmは進まなければガソリンスタンドがない。平地であれば、10kmを距離を押して歩くこともできるのだが、かなり高低差がある。

近くにバス停があるのだが、次の便は30分くらい待たねばならない。30分待って、バスがきたので、手を振ったのだが華麗にバスは去ってしまった。なんということだ。次のバスは、二時間後とある……。

しょうがないので、バス停の横にある交番に行った。そこで警察官に相談すると、「なんとかしましょう」ということ。四月からこの田舎に赴任した警官は、とても親切にしてくれた。「それは非合法だろう」「職域を逸脱しているだろう」というようなことまで、してくれたおかげで、無事帰宅することができた。

こんなことがあるのか!この警官がいなければ、タクシーやレッカーで高い金を払うか、恥を忍んで民家を一軒一軒あたり、ガソリンを分けてもらうかしかなかっただろう。警官に対する見方が変わった。だいたい、警察官というのは硬直した、怠惰な、愚鈍な連中が多いという気がしている。そうではない人もなかにはあるらしい。



サイコパス=サタンという記述を先日して、それは検証に値する事実だと思った。聖書にサイコパスが記述されているということは、人間とサイコパスの関わりは存外長いということである。

サイコパス=サタンから、善良な人間に悪が行き渡るプロセス、つまり悪の伝播については、「ルシファー・エフェクト」という本がもっともよく記述されていると思う。少し、あれなタイトルだけど、米国心理学者ジンバルドーの「スタンフォード監獄実験」に関する記述である。

スタンフォード監獄実験は、映画でも有名になったが、大学生を「看守役」「囚人役」を区分し、その環境がどのように個々人の人格や行動に影響を与えるかの実験である。まあだいたいどのようになったかは想像通りである。

ここではサイコパスという悪の源泉たる極点は見当たらず、社会構造の与える人間の変化に着目しているのだけれども、悪の伝播という点では同等だと思う。あるサイコパスとそれが与える健常者の効果を、定量的に実験できたらすごいものだ。まあそれは科学の進歩を待たねばならない。

ジンバルドーは実験内容からわかるとおり、サイコパスのような点的な源泉を認めているわけではない。彼はある腐ったシステムが、善良な人間を悪に導くとしている。
「一部の腐ったリンゴ」が問題なのではなく、「腐った樽」が問題なのであり、「腐った樽の製造工場」が問題なのである。(Amazonのレビューより)
私はこれもまた、誤っていると感じる。「腐った樽」と、その製造工場は、いったいだれが作ったのか?それは勝手に作られるのか、ある悪意ある人間の意志なのかという問題を、ジンバルドーは記述していない。いや、しているのか?私は実は、その本を読んでないのでわからない(4100円とやたらに高いので)。

ともあれ私は聖書のとおり、「悪魔は存在する」と考えている。

私のテーゼは単純であって、整理してみると、「倫理的悪=サイコパス=サタン」というもので、単純すぎて笑ってしまうくらいなのだが、私の知能がそれだけ低いのか、知識が足りないのかわからないが、とにかくこう思っている。つまり、精神医学と、倫理学と、宗教における諸概念が、私のなかで溶け合っているというわけだ。

私はさらに、哲学と、歴史学も絡み合わせて良いと思っている。それで、私が大好きなニーチェから、サイコパスに関する記述を探してみようという試みをしている。

道徳を超越しようとしたニーチェであるが、その意味とは善悪未分化の状態の、「生」の絶対的肯定というふうに私は捉えている。絶対的肯定とは、いささか矛盾しているが、結局のところ善ということである。われわれは生を絶対的に肯定することができる。それは、われわれが上の実験のように、看守役となって囚人をいじめ抜いても、また囚人役となってただ隷従することしかできなくなっても、である。われわれ自身は、善そのものであり、その意味では「原罪」などから解放されているのであり、カント的な「根源悪」は存在しないのであり、われわれの心理には、ただ光る善があるのみとなる。

ゆえに悪とはつねに外的なものであるということになる。善悪の彼岸で描かれたことはつまりそういうことである。ニーチェはキリスト者の価値観を批判するがそれは自己の内奥に悪を見つけるからである。それを罪に感じるからである。それは奴隷の考え方なのである。
サイコパスは常に、「悪いのはお前だ」と思い込ませるものである。



ニーチェが恋い焦がれて病まなかったのはソクラテス以前のギリシャであるが、私も明治維新前の日本に焦がれるという意味では同様である。私は江戸時代の日本人はプラトニズムに毒されていなかったと思うから。

渡辺京二によれば近代以降のさまざまな不幸の原因はインターステイトシステムにあるということである。インターステイトシステムはウォーラーステインの提唱した概念であるが、これは国際的な競争にあらゆる国が置かれることになり、不断の競争を強いられるということである(たぶん)。つまりある第三国が「俺は資本主義なんて知らないよ」と言うことは不可能ということである。このコンペティションに参加しない限り、強国による搾取、隷属、支配に晒されるからである。

ゆえに「自国の統治だけを考えていればよかった」極東の島国が突如外国の脅威にさらされ、文明開化をし、天皇が牛肉を食い、怠惰な国民を勤勉に「作り替える」必要があったというのは、ある程度やむなしということである。結局のところ、インターステイトにおける無限の競争がひとびとを疲弊させている、というのが渡辺京二の言いである。

ただ私が明治以降の日本が嫌いなのは国民を過度に疲弊させているからである。つまり、近代精神の恩恵であるところの、人権・平等の概念が一般的な国民には付与されていないという点である。人びとが奴隷的な労働を強いられ、政治的な参画もままならず、さらに重税を強いられているという点である。これを国家が意図的に放置していることに私は絶望を感じるのである。

たしかに日本の近代化以前には衣食住がままならず、ときに理不尽な人権侵害があったことだろうと思うが、それにしてもベンサム的な幸福量から言えば、現代人は大変不幸であるように思うし、江戸時代の日本人は比較的幸福だったと思う。

そういう点から私は「かつての日本」に対する郷愁を感じるのだが、パオロ・マッツァリーノなどは「昔はよかった病」などと退けている。たしかに一面的に評価できるものではないが、それにしても私は今の日本人は不幸であるようにしか見えない。

それはいろんな統計から見て取れるが、日本人は世界でいちばんセックスをしないとか、自殺率が高いとか、労働時間が長いとか、通勤時間が長いとか、貧しい家に住んでいるとか、若者が結婚できないとか、給料が下がり続ける一方だとか、税金が高く物価も高いとか、そういういろんな事実を考慮すると、不幸な国だと考える。

もちろん治安がいいとか、気候がいいとか、そういうメリットもある国だし、なにより上にあげた警官のように、とても親切な人がいるのだが、それにしても、人びとが奴隷的労働を強いられ、セックスもままならないとなれば、これは不幸と言うしかない。そうして、ひとびとには政治的に参画し、これを改善するという意識もない。今の日本で、民主主義によって何かが変わると信じている人はいないだろう。



だらだら書いてしまった。今日は部屋掃除でもしよう。

2 件のコメント:

  1.  資本主義により豊かになった先進国が、逆に出生率の低下を招いているという問題は、既に何年も前からあって、社会学者などの見解や論文など色々なところで見ることができます。
     しかし、日本のように急激な近代化、敗戦後の高度経済成長、世界で唯一の被爆国、資源の乏しい島国という特異な歴史を辿り、儒教観とアメリカナイズされた幸福な人生のパッケージが歪に混ざりあい、韓国や中国との軋轢のなかで、社会に深く根付いたことなかれ主義という経過とともに、「愛と憎」が癒着し離れがたい関係性を築いた結果、若者が搾取され高齢者が優遇されるという閉塞感と絶望観に包まれた社会になってしまった日本ですが、希望はまだあります。それは、科学と進化です。黒崎さんのように既存の枠組みに疑問を持ち、足を引きずるような痛みを抱えながらも多くの人の幸福のためにどうすればいいかと考えて行動している人も必ずいると思います。それが、ドンキホーテのように滑稽にみえても、その魂は必ず誰かの心に響き、いつか大きな変化に結び付けば、悪魔の魂も変えることができるはずです。このように絶望して死ぬ位なら、滑稽な希望にすがったほうが楽じゃないですか?自殺する人間が日本に年間3万人いても、世界の人口はどんどん増えているわけだし。楽しく生きても苦しく生きても誰も省みてくれるわけではないのです。

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  2. Devotee: Christ and Chaitanya have both taught us to love all mankind.
    Ramakrishna: You should love everyone because God dwells in all beings. But to wicked people you should bow down at a distance.
    (The Gospel of Ramakrishna, pp. 42-44)

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