5.09.2016

悪魔は心を持つか

「だれが何のために、私をこんなに苦しめるのか?」という人間の根源的な命題に対し、私は悪の極点としてのサイコパスを提示してみた。

人間は悪への傾向を持つけれども、完全な悪に染まることはない。これと比して、サイコパスは生まれながらの完全な悪である。「悪魔は初めから人殺しであり、真理に立つ者ではない」と、聖書。

仕事帰りに車を運転しながら、ペックの記述が気になっていた。ペックのサイコパス観は、精神分析学的である。というのは、あくまで因果関係:ストーリーを作りたがるのである。またそこにひとつの「生への意志」を見つけようとする。

ペック曰く、サイコパスは病的なナルシストであり……自己の罪過を一切認めないために、他者への攻撃を繰り返すということである。ペックは、こうしたサイコパスを哀れみ、慈しむことが重要だと考えている。

これは、ひとつの嘘が百の嘘を生むという過程に似ている。ある意味で、サイコパスという存在は「私は悪くない:私は正しい」と、自己にも他者にも嘘を吐きつづける存在というふうに定義できなくもない。

嘘でできた城が瓦解するとき、それはサイコパスにとって死ぬより恐ろしいことではないか。自らの行為を「生まれて初めて」反省しようとしたとき、サイコパスはどうなってしまうのか。発狂するか、自死するしかないのではないか。……私はそれを考えると、サイコパスに若干の哀れみを感じずにはいられない。

例えば私の会社の経営者はサイコパスであり、私の周囲の人間すべてが彼を信用せず、嫌っており、私の上司――極めて善良で知性的な人間を自殺未遂にまで追い込んだのであるが、もしサイコパスに少しの善意が、なにかのまちがいで芽生えたとしたら(そのような事例は科学史に存在しないのだが)それはおそろしい葛藤を生み出すだろう。

社会的に成功してはいても、ただの嫌われ者、やっかい者、この世から早く消えて欲しいと思われている、殺人者、攻撃者――悪魔。そうである自己を認識することは、およそ不可能に思われる。

実際にサイコパスに対峙し、そのときの経験から思うのだが、たしかに防衛機制的な「投影」はよく見られるのである。例えば、私の会社のサイコパス経営者が、従業員の自殺未遂を聞いたときに、「あいつは最低だ」と言った。しかし客観的に「最低」なのは、どう中立的に立ってみてもサイコパスの方である。また、「あいつは守銭奴だ」と言うとき、実際はサイコパスが守銭奴なのであり、「あいつはバカだ」「無能だ」「仕事をしない」「嫌われ者だ」とサイコパスが咆吼あげるときには、それはすべて、サイコパス自身のことを指しているように思われる(もっともサイコパスは饒舌なので、そのときは気づかずに、振り返って気づいたのであるが)。

上記の事実は、実はサイコパスの定義の上で重要である。実際のところサイコパスが「罪」だとか「同情」を(無意識レベルにせよ)認識できるかどうかという問題である。サイコパスが自らに対する叱責をただ他者に向けているだけだとすれば、彼らは無意識のレベルではわれわれと共通した感覚を持っていることになる。同情だとか、共感能力を持ちながら、それらを否定する(自己を否定しないために)「がんじがらめ」になっていると考えることができる。

たしかにペックのように、サイコパスには慈愛を持って接するしかないのかもしれない。

ただ私には、「サイコパスにも心がある」というようなペックの主張は、精神分析特有の誤謬のようにも感じられる。精神分析はたいてい遺伝的・先天的な要素を度外視している。精神分析とは人間の「いま」をエピソードで規定しようとする学問である。そこには、エピソードとして「記述」される範疇しか重要視されないという問題がある。ようは、なにもかも対人関係の「あいだ」としての問題から答えを導き出そうとするものである。

たとえば体細胞の21番染色体がトリソミーであるところのダウン症患者を、その遺伝医学的な前提なしに精神分析医が診断したら、おもしろいことになるとは思わないだろうか?「あなたは、きっと父親に抑圧された、それがために、整然としゃべることすらままならないのです……どうか横になったまま、目を瞑って……過去のことを話して……」。まあこれはひとつのブラックユーモアとして。

結局のところ、ペックもサイコパスを精神分析的に診断したが、一切の治療の進展はままならなかった。

私はサイコパスが遺伝病であることにある程度の確信を持っている。だから、私はサイコパスに心があるとは思っていない。それはa nativitateにそうなのである。

ただ、上に述べたように、サイコパスが「投影」的な言動をすることはたしかである。この経験的事実と、科学的事実との間に、いまいち折り合いがつかないでいる。

以上、すごくめんどうな文章になったのだが、結局私が問いたいことは、サイコパスにも心があり、それを抑圧しているだけなのか?それとも初めから心がなく、われわれと同じような人間ではないのか?ということである。いわば悪魔は心を持つかということである。

この答えを出すには私はまだ未熟である。

3 件のコメント:

  1. 「投影」という精神分析学のタームは、精神の防衛機制として、定式化されたものですが、本来、人間は自己の生――――すなわち、自己物語を正当化するような動向を必ずもつものです。「投影」は自身に対する評価を他者に投げかけるわけですが、人間は自分の生きている世界の物語が整合性・正当性を保つために、手近に転がっている、自身物語にとって都合のいい「もの・ごと」を手あたりしだいに自身の物語に組み込む。本来「投影的現象」はこのように定式化するべきだと感じます。
    要するに、サイコパスは、なんらかの遺伝的、環境的な要因によって、一般的な人とは大きく異なる、サイコパス特有の物語を自身に〈かたり〉、サイコパス的世界を構築し、サイコパス的視座からこの世界を見ることで、自身がいままで〈かた〉(語る=騙る)ってきた物語から、抜け出せなくなっているのではないか、彼らは自身を騙って生きてきたのではないだろうか。

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  2. 一般的な感覚や思考から逸脱している者を「心がない」とみなしがちだが、心はたしかにあると思う。

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  3. 匿名さん
    それを言うなら健常者もまた同じなのではないのか。
    皆偏った方法で世界を捉え、それを正しさとしている。
    本当の真実が捉えられることはない。
    「心」がある限り、人間もサイコパスも自己欺瞞の荒野から抜け出すことはないだろう。
    心を持ちながらそれを否定するほかあるまい。
    そして人々はそれをニヒリズムと名付けるのだ。

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